メッセージ - 主に捧げてはならないもの(レビ記22:17-33)
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続いて主は、捧げ物における「してはならぬ」事を、祭司を含め、イスラエルの全ての人々に命じている。
『「アロンとその子たち、およびイスラエルのすべての人々に言いなさい、『イスラエルの家の者、またはイスラエルにおる他国人のうちのだれでも、誓願の供え物、または自発の供え物を燔祭として主にささげようとするならば、あなたがたの受け入れられるように牛、羊、あるいはやぎの雄の全きものをささげなければならない。すべてきずのあるものはささげてはならない。それはあなたがたのために、受け入れられないからである。』(レビ記22:18-20)
捧げ物は、傷のあるものや、病気持ちのもの、欠損のあるものなどを、主は嫌われる。
神は、目に見えないお方、耳でその話を聞けないお方である。
それ故、人は、あたかも神はいないかのように、神は見ておらず聞いていないかのように、そのように無意識的に振る舞いやすい。
もし神がいないとしたら、家畜を祭壇に持って行って捧げる一連の行為は、単なる体裁の取り繕いに過ぎず、単純に自分の資産のプラスマイナスで見るなら、マイナスの行為である。
どうせそうなら、健康で良い動物は自分のもとに残し、きず物や無価値のものを捧げるほうがエコで効率的だ、という事になる。
しかしあいにく、主は生きておられるお方であり、私達の一挙手一投足だけでなく、心の動機も見ておられる。
そのように、主を軽んじるいけにえを主は忌み嫌われ、その人の身に呪いを招く事になってしまう。
『今これをあなたのつかさにささげてみよ。彼はあなたを喜び、あなたを受けいれるであろうかと、万軍の主は言われる。』(マラキ1:8)
主は問われる。どうでも良い傷ものを、あなたの上司や支配者などに捧げるのか、と。
主は、主を軽んじるような捧げ物にはうんざりで、そのような捧げ物を捧げる者がなくなるよう、戸を閉じる者があれば良いのに、とさえ言われる。(マラキ1:10)
このように戒められても、なお、その事を面倒くさく思ったり、ちゃんと捧げますと言いながら実体はそれと違う事を行う者に、主は、呪いを送られる。
なんと主は、そのような捧げ物を「糞」と呼び、それをあなたたちの顔面に投げ返す、とさえ言っている。
『祭司たちよ、今この命令があなたがたに与えられる。万軍の主は言われる、あなたがたがもし聞き従わず、またこれを心に留めず、わが名に栄光を帰さないならば、わたしはあなたがたの上に、のろいを送り、またあなたがたの祝福をのろいに変える。あなたがたは、これを心に留めないので、わたしはすでにこれをのろった。見よ、わたしはあなたがたの子孫を責める。またあなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。』(マラキ2:1-3)
「汚れ」以外の理由でも、捧げてはならないパターンがある。
『「牛、または羊、またはやぎが生れたならば、これを七日の間その母親のもとに置かなければならない。八日目からは主にささげる火祭として受け入れられるであろう。あなたがたは雌牛または雌羊をその子と同じ日にほふってはならない。』(レビ記22:27-28)
生まれたばかりの子を、すぐさまその母から引き離す事や、親と子とを同じ時にほふる事は、残酷な行為である。
神へ捧げる捧げ物の中に、そのような「残酷」が含まれていてはならない事を、主は命じておられる。
最後に主は、主の戒めを守り行う事、主の聖なる名を汚すことなく、イスラエルの中で主の名は聖とされなくてはならない事を、命じている。
『あなたがたはわたしの戒めを守り、これを行わなければならない。わたしは主である。あなたがたはわたしの聖なる名を汚してはならない。かえって、わたしはイスラエルの人々のうちに聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの国から導き出した者である。わたしは主である」。』(レビ記22:31-33)
ここで、主は何度も「わたしは主である」と言っている。
言うまでもなく、主こそ、主である。
すなわち、決定権や支配権は自分には無く、主の側にあり、私達は主従関係の「従」、主こそ「主」である事を、いつも忘れてはならない。