メッセージ - 御前にいつも整えておくもの(レビ記24:1-9)
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今回主は、イスラエルの民が主の御前にいつも用意しておくべきものについて、再確認している。
その一つが、主の御前にともしびを灯しておく事である。
『「イスラエルの人々に命じて、オリブを砕いて採った純粋の油を、ともしびのためにあなたの所へ持ってこさせ、絶えずともしびをともさせなさい。すなわち、アロンは会見の幕屋のうちのあかしの垂幕の外で、夕から朝まで絶えず、そのともしびを主の前に整えなければならない。これはあなたがたが代々ながく守るべき定めである。』(レビ記24:2-3)
ともしびを灯し続けるためには、油が必要だが、その油は、一般のイスラエル人が用意するべき事を命じている。
一般の人は主の聖所に入る事はできないが、その人の「捧げ物」は主の聖所の内側へ入って行って、主の御用に用いられるのである。
燭台は世を照らす光としての教会をあらわし(黙示録1章)、その光をともし続けるための油は、主の御霊をあらわす。
ゼカリヤは主から、七つの皿がある金の燭台の幻を見せられた(ゼカリヤ4章)。
その七つのともしび皿には、おのおの七つの管があり、また、燭台の左右に、二本のオリーブの木があった。
『わたしはまたわたしと語る天の使に言った、「わが主よ、これらはなんですか」。わたしと語る天の使は答えて、「あなたはそれがなんであるか知らないのですか」と言ったので、わたしは「わが主よ、知りません」と言った。すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。』(ゼカリヤ4:4-6)
ゼカリヤは、主の御前で灯され続ける燭台の仕組みを見せられ、それが何なのか分からなかったが、主はそれを「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」と言われた。
主の御前の燭台に灯す事が出来るのは、誰か人間の権力によるのではなく、能力によるのでもなく、主の霊によって、である。
教会の運営は、誰か特別な人だけのものではない。
聖霊の油に促された聖徒たち一人一人の奉仕によって、であり、それは権力や能力によるものではない。
いくら音楽の才能がある人でも、信仰が無いなら、主に受け入れられる賛美を捧げる事は出来ないものである。
教会こそ、世を照らすともしびであり、その、ともし火の真ん中におられるお方は、キリストである。(黙示録1章)
もう一つ、イスラエルの民が、主の御前にいつも用意しておくべきものがある。
『あなたは麦粉を取り、それで十二個の菓子を焼かなければならない。菓子一個に麦粉十分の二エパを用いなければならない。』(レビ記24:5)
パンの数は、イスラエル部族の数と同じ十二であり、一つ一つのパンは、神に捧げられた民一人一人をあらわしている。
私達も、純粋なパンとして、神に捧げられられるものとなるため、私達の内から悪意と邪悪のパン種を取り除くようにと、パウロはすすめている。
『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)
『そしてそれを主の前の純金の机の上に、ひと重ね六個ずつ、ふた重ねにして置かなければならない。』(レビ記24:6)
主に捧げられるパンはこのように規律正しく並べられる。
同じように、人が主の御前に捧げられる時は、誰かが飛び抜けて目立ったりするものではない。
主の前に、きよい、生きた供え物として捧げられる時は、誰か人間が特別扱いされたり、誰か人に栄光が帰されるのではなく、御前で規律正しく捧げられるものである。
『安息日ごとに絶えず、これを主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々のささぐべきものであって、永遠の契約である。これはアロンとその子たちに帰する。彼らはこれを聖なる所で食べなければならない。これはいと聖なる物であって、主の火祭のうち彼に帰すべき永久の分である」。』(レビ記24:8-9)
この事は永遠の契約であるとある通り、現代も有効である。
現代では、私達キリスト者が主日ごとに主に礼拝を捧げているが、私達は主日の礼拝を捧げるごとに新たにされ、力を得て、御前できよくその週を生きて行くのである。