メッセージ - のろいの明細 末期的段階(レビ記26:30-39)
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主への不従順がもたらす災いの末期的段階として、自分の息子や娘の肉を食べるまでの深刻な食糧難がある事を、前回見た。
しかしそれだけには終わらない。
『わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の祭壇を倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を投げ捨てて、わたしは心にあなたがたを忌みきらうであろう。』(レビ記26:30)
主は、あらかじめ人に「この不従順を行えば、この災いが下る」と警告を与え、そして人が不従順を行った場合、驚くほどの正確さで、その災いを実行される。
ただし、その執行までは、かなりの時間的隔たりがあり、人間にとっては「遅すぎる」と思える事がある。
主がそこまで時間を持たれるのは、忍耐をもって人が正しい道に立ち返るのを待たれるからだ。
このレビ記の時代(BC1500〜1300年頃、諸説あり)から数百年経った、レハブアム王の時代(前930―913年)、北イスラエル王国と南ユダ王国は分裂したが、その北イスラエル王国の最初の王・ヤロブアム(口語訳:ヤラベアム)の時代に、次の事が起こった。
『ヤラベアムはその心のうちに言った、「国は今ダビデの家にもどるであろう。もしこの民がエルサレムにある主の宮に犠牲をささげるために上るならば、この民の心はユダの王である彼らの主君レハベアムに帰り、わたしを殺して、ユダの王レハベアムに帰るであろう」。そこで王は相談して、二つの金の子牛を造り、民に言った、「あなたがたはもはやエルサレムに上るには、およばない。イスラエルよ、あなたがたをエジプトの国から導き上ったあなたがたの神を見よ」。』(1列王記12:26-28)
レビ記を学んで来た皆さんは、この王はとてつもなく恐ろしい罪を犯した事を知って、心震えるだろう。
彼はイスラエルを災いへと導くような決断をしてしまったが、主は憐れみ深く、一人の神の人(預言者)を彼に遣わした。
『神の人は祭壇にむかい主の命によって呼ばわって言った、「祭壇よ、祭壇よ、主はこう仰せられる、『見よ、ダビデの家にひとりの子が生れる。その名をヨシヤという。彼はおまえの上で香をたく高き所の祭司らを、おまえの上にささげる。また人の骨がおまえの上で焼かれる』」。その日、彼はまた一つのしるしを示して言った、「主の言われたしるしはこれである、『見よ、祭壇は裂け、その上にある灰はこぼれ出るであろう』」。』(1列王記13:2-3)
この預言者は、具体的に「ヨシヤ」というまだ生まれていない王の名前を挙げ、やがてこの王が、この偶像の祭壇の上にその祭司たちの死体を焼いて汚すという、レビ記で約束されている通りの事を行うであろう、と預言をした。
その時、実際に祭壇は裂け、その上にある灰はこぼれ、ヤロブアム王は差し伸ばした手が萎え、主への恐れが起こったが、残念ながら、ヤロブアム王はそれで悔い改めなかった。
そして、そのおよそ350年後、この預言者の言葉が成就し、実際にヨシヤという名の王が生まれ、彼によって、この事が為された。(2歴代誌34章)
主は真実な方であり、大昔から立てられたご計画を実行されるお方である。
真実な神は、私達にも、大昔から祝福の約束を与えておられる。
私達が生まれる前から、キリストにあって天にあるもろもろの霊的祝福によって祝福し、私達を御前で清く傷なき者として、定めておられた。
それが定められていたのは、世界の基の置かれる前から、である。
『ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。』(エペソ1:3-5)
まことに主のはかりごとは遠大過ぎて、私達には及びもつかない。
『わたしはまたあなたがたの町々を荒れ地とし、あなたがたの聖所を荒らすであろう。またわたしはあなたがたのささげる香ばしいかおりをかがないであろう。わたしがその地を荒らすゆえ、そこに住むあなたがたの敵はそれを見て驚くであろう。』(レビ記26:31-32)
民が不従順を犯すと、主は自ら「聖」と定められた神殿さえ、荒らされるままにされた。
ソロモンの時代に建てられた神殿は、これ以上は無いというくらい金銀がふんだんに使われた豪華絢爛なもので、主の栄光もその中に満ち満ちて、祭司もその栄光のために仕えられなくなった程に臨在が濃厚になった事さえあった。
その時代の、一体誰が想像出来たであろう。
この聖なる場所が、異邦人に蹂躙され、全ての宝物が奪われ、破壊されてしまう様を。
ソロモンは、その時代に不従順の罪を犯してしまい、レビ記で記されてあったのろいを早くも実現する土台をつくってしまった。
主は、神殿などの「場所」に宿るのではない。人々の従順さの内に宿るのである。
どこか場所や建物が神殿だと思ったら、間違いである。
私達キリスト者こそ神殿であり、その人が不従順になるなら、主の栄光と臨在は、そこから去ってしまうのだ。
結局は、既に聞いている通りである。御言葉に服従する事、それが全てである。