メッセージ - 家畜と家の評価価値(レビ記27:9-15)
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続いて、主の御用のために、家畜や家を捧げる場合について。
『主に供え物とすることができる家畜で、人が主にささげるものはすべて聖なる物となる。』(レビ記27:9)
「聖なるものとなる」、すなわち「聖別」とは、所有権が人から神へと完全に移行した、という事であり、それを人が手出しすると、災いを免れない。(ヨシュア記7章、1サムエル15章)
『ほかのものをそれに代用してはならない。良い物を悪い物に、悪い物を良い物に取り換えてはならない。もし家畜と家畜とを取り換えるならば、その物も、それと取り換えた物も共に聖なる物となるであろう。』(レビ記27:10)
つまり「これを主の御用のために捧げた」と、一度決めておきながら、後からそれを「惜しい」と思って、より悪い物に取り替えたり、あるいは、一度これを捧げると決めておきながら、後から「そういう事ならもっと良い物にしておけばよかった」と思い直したりする事は、良くない事であると主は示している。
主は捧げ物について、純粋さ、シンプルさを求められる。
ひと度、神の所有にしたのであれば、それに対して人が「思い巡らした事」や「善し悪し判断」を、を混ぜ込んではならない。
人が後から、ああでもない、こうでもないと、あれこれ思い巡らした有形無形の成果物を混ぜ込んでしまうと、ほぼ、より物事を悪くする。
それをしてはならない。
捧げ物の善し悪し判断は、捧げる人がするべき事ではない。
『祭司はその良い悪いに従って、それを値積らなければならない。それは祭司が値積るとおりになるであろう。』(レビ記27:12)
ここにある通り、捧げ物の善し悪し判断は、祭司がする事であり、それは家畜の場合もそうであるし、家を主の御用のために捧げる場合も同じである。(同14節)
私達にとって、善し悪し判断をしてくれる祭司とは、まことの大祭司なるキリストである。
全ての評価は、私達ではなく、キリストがする事である。
私達は、主から何か大きな事を任される時、「自分はそんな奉仕なんて、とても出来ない」「自分にはそんな価値は無い」「能力外だ」と思うことがあるが、私達がどう思うかは重要ではなく、主が、私達にどのような御心を持っておられるかが重要であり、私達の考えた事が成るのではなく、主の御心が、必ず成るのである。
主がGOサインを出したのであれば、いかに能力外であろうと、いかに小さくつまらない者であろうと、それは、可能なのである。
そして、その逆の事もある。
すなわち、主の御心でもないのに、「自分こそ、その奉仕の適任者だ」などと言って、その事を為そうとするなら、必ずうまく行かない。
むしろ主のストップがかかり、強制的にその座から降ろされ、別の適任者にゆずる事になり、大恥をかいたりする。
『誇る者は主を誇るべきである。自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。』(2コリント10:17)
人はむやみに「主に捧げる」と言うべきではないし、コミットメントもなしに奉仕者になるべきではない。
『もしその人が、それをあがなおうとするならば、その値積りにその五分の一を加えなければならない。』(レビ記27:13)
ひと度、主に捧げたものを思い直し、やっぱり自分のものにしようとすると、後々ペナルティがつくのは、法則である。
それは家畜の場合もそうだし、家を主の御用のために捧げる場合も同じであり(同15節)、そして私達も、ひと度主への奉仕を決心しておきながら後にそれを思い直してしまうとしたら、何かしらのペナルティが主から来るのは、法則である。
それ故、私達は主の奉仕、主への捧げ物については、自分の「善悪判断」は捨て去るべきであり、主の御心を求め、主の判断に従うべきである。