メッセージ - 土地の評価価値(レビ記27:16-25)
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『もし人が相続した畑(土地)の一部を主にささげるときは、あなたはそこにまく種の多少に応じて、値積らなければならない。すなわち、大麦一ホメルの種を銀五十シケルに値積らなければならない。』(レビ記27:16)
土地の価値をはかる上で、基準とするものは、広さではなく、立地でもない。
「蒔く事の出来る種の量」である。
つまり100ヘクタールのいばらや岩だらけの土地よりも、20ヘクタールのよく耕された土地のほうが、価値がある、という事も、十分有り得るのだ。
この事から、神の御前に価値ありとされるのは、その人の生い立ちでもなく、教会にいた年数でもなく、その人がいかに、御前に良き「実」を結べるか、であると分かる。
私達は、神の畑である。(1コリント3:9)
何年教会に通っていても、使う言葉がいかにもクリスチャンっぽくても、「実」が無いとしたら、御前に価値は無い。
私達は、ガラテヤ5:22-23 にある「実」を結んでいるだろうか。
兄弟姉妹や隣人への「愛」があるだろうか。
喜んでいるだろうか。
平安だろうか。
寛容だろうか。
親切だろうか。
善意にもとづいて行動しているだろうか。
誠実だろうか。
柔和だろうか。
自制があるだろうか。
これらの実が、少しずつでも実って来ているなら、その人は御霊にあって成長している人である。
しかし、何年たっても変わらず、それらの実が全然増し加わっていないなら、キリスト者としての根本的なあり方を見直さなくてはならない。
『もしその畑をヨベルの年からささげるのであれば、その価はあなたの値積りのとおりになるであろう。もしその畑をヨベルの年の後にささげるのであれば、祭司はヨベルの年までに残っている年の数に従ってその金を数え、それをあなたの値積りからさし引かなければならない。』(レビ記27:17-18)
土地を主の御用のために捧げるにあたっては、ヨベルの年までの年数も、関係して来る。
私達はあたかも、まことのヨベルの年、すなわち、全ての罪の負債が帳消しにされ、まことの故郷である天に還る日に向かい、日々、歩んでいるようなものである。
このまことのヨベルの年に至るまで、いかに御前に有用な実を結ぶか。そのような心がけで日々歩むべきである。
『もしまた、その畑をささげる人が、それをあがなおうとするならば、あなたの値積りの金にその五分の一を加えなければならない。そうすれば、それは彼のものと決まるであろう。しかし、もしその畑をあがなわず、またそれを他の人に売るならば、それはもはやあがなうことができないであろう。その畑は、ヨベルの年になって期限が切れるならば、奉納の畑と同じく、主の聖なる物となり、祭司の所有となるであろう。』(レビ記27:19-21)
約束のカナンの地で、主からゆずり受けた土地は、本来、その人とその子孫のものであり、いかに経済的に落ちぶれ、誰かに売ってしまおうとも、ヨベルの年には、その人の元に還ってくるのが基本だったが、ここに記されていたように、永久に、その人の手から放れてしまう、という事があるようである。
すなわち、その土地を「神様の御用のために」捧げた人が、ヨベルの年になってもその土地を買い戻さず、むしろ、その土地を他の人に金で売るとしたら、もはや、その土地は永遠に手放した事になってしまう。
ヨベルの年の前の年になっても、金を使い果たしてしまっていて買い戻しが出来ないのか、あるいは、主からゆずり受けた土地よりも、現金のほうが大切なのか、とにかく、その人の心が、主から受けたゆずりの地を軽んじて油断していると、永遠にそこを失ってしまうのだ。
エサウは、一杯の豆の煮物と引き換えに長男の権利を永遠に手放してしまった。
同じように、キリスト者の中にも、ひと度主に贖われ、主のものとされておきながら、世の一時的な金銭を得たいがために、ゆずり受けるべく神の国を、自ら永遠に手放してしまうような人がいるが、そういう事があってはならない。
『すべてあなたの値積りは聖所のシケルによってしなければならない。二十ゲラを一シケルとする。』(レビ記27:25)
神様のために捧げるものの値積もりは、私達に属する量りではなく、神に属する量りによって、量られなくてはならない。
人の量りでは重くても、神の量りには軽く値積もられ、その逆に、神の量りは重くても、人の量りでは軽く値積もられてしまうような事がある。
しかし私達は、世間の解釈や世間のはかりによってではなく、天の、神の国の、永遠に変わらぬ聖なる「はかり」によって、はかるのが本来である。