メッセージ - コハテ族の奉仕(民数記4:1-20)
礼拝説教メッセージ音声:コハテ族の奉仕(民数記4:1-20):右クリックで保存
『「レビの子たちのうちから、コハテの子たちの総数を、その氏族により、その父祖の家にしたがって調べ、三十歳以上五十歳以下で、務につき、会見の幕屋で働くことのできる者を、ことごとく数えなさい。』(民数記4:2-3)
3章では、生後一ヶ月からのレビ族の男子が数えられたが、4章ではさらに、幕屋の奉仕に携わる事のできる、三十歳以上・五十歳以下の、働き人の数を数えるように、命じられている。
レビ人の幕屋の奉仕は、幕屋の器物を実際に運ぶ事だが、それらの多くは、金や銀、アカシヤ材などで出来た重量物であり、また、全て主の礼拝に用いられる聖なる器物であるから、この奉仕に当たるのは、ある程度成熟した男性でなければならない。
『宿営の進む時に、アロンとその子たちとは、まず、はいって、隔ての垂幕を取りおろし、それをもって、あかしの箱をおおい、その上に、じゅごんの皮のおおいを施し、またその上に総青色の布をうちかけ、環にさおをさし入れる。』(民数記4:5-6)
主の臨在の雲が立ち上がり、イスラエルが進むように導かれた時、幕屋は解体して、荒野を運んで行かなくてはならないが、解体するにあたって、まず、祭司であるアロンとその子達が解体して梱包し、担ぎ棒を通し、運べる状態にし終わってから、初めて、レビ人達の手に委ねる事が出来る。
この、幕屋の聖なる器物には、それぞれ、梱包する手順も、主から定められている。
まず、あかしの箱の場合は、聖所と至聖所を仕切る幕で覆い、次はじゅごんの皮で、そして一番外側は、青色の布で覆う。
供えのパンの机と、それに属する祭具の場合は、まず青布で覆い、次は緋色の撚り糸の布、そして一番外側は、じゅごんの皮で覆う。
燭台や金の香壇など、その他に聖所の務めに用いる道具は、全て、まず青布で覆い、その上にじゅごんの皮で覆う。
つまり、レビ人がそれらを運搬する際は、契約の箱は、青布で包まれた神輿のようなものとなり、それ以外の祭具は、じゅごんの皮で包まれたものとなる。
これら聖なる祭具は、少しでも中身を晒してはならない。
それらは、あまりに聖であるため、主の許しの無い人が触れてしまうと、死んでしまうためであり、それは、いかに祭具を運ぶ役割が与えられたケハテ族のレビ人であっても、それを直接見るなら、死んでしまうのである。(15,20節)
これらの中身は、尊き神の聖なる器具ではあるものの、ケハテ族にとっては、それは単に、じゅごんの皮で包まれた、見栄えの良くない、運ぶには重たく難儀するもの、と、思えるかもしれない。
そのように、外見的・表面的な事で、奉仕を見てしまうと、自分達は、つまらない、きつい、地味すぎる奉仕ばかりやらされている、と、良からぬ思いで満ちて行ってしまう。
だからいつも、自分達は尊い器を運ぶという、尊い奉仕をさせていただいている、という、感謝を忘れぬべきである。
しかし、聖なる祭具を運ぶ役割が与えられているコハテ族のコラは、モーセとアロンに逆らった。
『ここに、レビの子コハテの子なるイヅハルの子コラと、ルベンの子なるエリアブの子ダタンおよびアビラムと、ルベンの子なるペレテの子オンとが相結び、イスラエルの人々のうち、会衆のうちから選ばれて、つかさとなった名のある人々二百五十人と共に立って、モーセに逆らった。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らって言った、「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」。』(民数記16:1-3)
彼らの言い分は、全会衆はことごとく聖なるもので、主がその内におられるのだから、モーセとアロンだけが人の上に立って祭司として偉そうにしているのはおかしい、というものだ。
その言い分は、現状の立ち位置に不満のある人々には、もっともに聞こえ、ある種の自己実現欲をくすぐるものである。
ここにいる、名のある二百五十名も、その欲望をかき立てられて、コラと共に立ったのだろう。
モーセは、そんな彼らに、本来的な事を思い起こさせようと、説得する。
コラ達コハテ族は、主の御そば近くで栄誉ある務めに任じられており、それは小さなことではなく、特別な事である。
それで満足せず、なお祭司の職務を求めるのは、主に敵対する事だ、と。
しかし、彼らはモーセの説得を突っぱねた。
そんな彼らの末路は、とても恐ろしいものであった。
『エリアブの子はネムエル、ダタン、アビラムである。このダタンとアビラムとは会衆のうちから選び出された者で、コラのともがらと共にモーセとアロンとに逆らって主と争った時、地は口を開いて彼らとコラとをのみ、その仲間は死んだ。その時二百五十人が火に焼き滅ぼされて、戒めの鏡となった。ただし、コラの子たちは死ななかった。』(民数記26:9-11)
コラの子達は、父が滅びるまさにその時、その天幕から離れて、滅びを免れていたようである。
恐らく彼らは、父よりも主を恐れ、父の陰謀から離れていたのだろう。
そして、そのコラの子孫たちは、詩篇において、素晴らしい信仰告白をいくつも残している。
『聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌
神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を/見ることができるだろうか。』(詩篇42:1-2)
いかにコラの子といえど、主を慕いあえぐ心をもって、主の奉仕を感謝しつつ望むなら、後に大きな栄誉に与るのである。
私達の奉仕も、もしかしたら、じゅごんの皮の重たいものを運んでいるかのような、地味なものであるかのように見えるかもしれない。
しかし、その中身は、主の尊い事に用いられる、聖なる器である。
その事をいつも忘れずに、主を慕いあえぎつつ感謝を持って、奉仕に当たっていく皆さんでありますように!