メッセージ - 主の住まわれる集会の清め(民数記5:1-10)
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『「イスラエルの人々に命じて、らい病人(原語:ツァラアト)、流出のある者、死体にふれて汚れた者を、ことごとく宿営の外に出させなさい。男でも女でも、あなたがたは彼らを宿営の外に出してそこにおらせ、彼らに宿営を汚させてはならない。わたしがその中に住んでいるからである」。イスラエルの人々はそのようにして、彼らを宿営の外に出した。すなわち、主がモーセに言われたようにイスラエルの人々は行った。』(民数記5:2-5)
ツァラアトに罹っている人や、流出のある人等は、宿営の外に隔離し、そこで生活しなければならないという事を、主は既にレビ記で命じられていた。
その命令が出された時点で、自主的に出て行った人も、出て行かなかった人もいたのだろう。
そしてここで主は、明示的に「ことごとく宿営の外に出させなさい」と命じ、こうしてツァラアトに罹っている人や流出のある人たちは全て宿営から出て行った。
この事は、現代の民主主義・人権主義の観点からは、ひどいよう見える。
しかし、忘れてはならない。神の民は、「民主主義」ではなく「神主主義」、「人権主義」ではなく「神権主義」で生きるべき事を。
主は、イスラエルの宿営を「わたしがその中に住んでいる」と言われた。
聖なる主が、宿営の中に共に住んでおられるからには、一切の汚れをその中から除き去るべきである。
現代は「人権」を不自然に重んじるあまり、殺人者や未成年者の「人権」が歪んだ形でまかり通ってしまい、本来あるべき善悪の概念や、清さと汚れの概念が、混乱を来たしていて、罰するべきを罰さず、罰さぬべきを罰してしまうような事が、まかり通ってしまっている。
民主主義や人権主義は、罪過ちのある不完全な人間を主体とする所に、致命的な欠陥がある。人は結局、神を主として生きる事こそ、最善と幸いがあるのだ。
自分の中に、他人を汚してしまうような罪や汚れがある時は、周囲の人達を汚したり不愉快にしてしまうだけであるので、人の集まりから出て、主と一対一で向き合い、主にこの罪や汚れを対処して頂くうべき時だ。
『ひとりの重い皮膚病人(ツァラアト)がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら(if You are willing)、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう(I am willing)、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病(ツァラアト)は直ちにきよめられた。』(マタイ8:2-3)
また主は、和解すべき紛争を和解し、解決すべき問題を解決し、そうして、イスラエルの宿営の中から平和を乱す種を除き去るよう命じておられる。
『男または女が、もし人の犯す罪をおかして、主に罪を得、その人がとがある者となる時は、その犯した罪を告白し、その物の価にその五分の一を加えて、彼がとがを犯した相手方に渡し、そのとがをことごとく償わなければならない。』(民数記5:6-7)
ここはKJVでは「When a man or woman shall commit any sin that men commit,」と始まる。
罪にコミットする事、すなわち、「罪」状態に入る事は、人に損害を与えるだけでなく、「主に罪を犯す事」と記されている。
その解決のために、犯した罪を告白し、損失を与えた相手がいる場合には、五分の一を加えて償いをし、償いをすべき相手がいなければ、主に対して償わなければならない。
私達が罪を犯す事によって、主も、兄弟姉妹たちも、心に傷を受ける。だから、単に物品の償いをすれば良いという問題ではなく、相手の心のためにも、主のためにも、ある程度のペナルティを自分が受ける必要があるのだ。
イスラエルの会衆は、このように、共同体の中から汚れを除き去り、主の住まわれるイスラエルの宿営を清めた。
私達も、主から除き去るべき罪、解決すべき問題が示されたなら、早急にそれを除き去り、私達が属する主の集会を清めるべきである。