メッセージ - のろいの苦い水(民数記5:11-31)
礼拝説教メッセージ音声:のろいの苦い水(民数記5:11-31):右クリックで保存
この章は、イスラエルの宿営の中から汚れを取り除く命令であるが、神の共同体の中で、最も根幹を為す「夫婦関係」という、絶対に親密であるべき信頼関係において、夫が妻の貞節を疑うという「汚れ」が生じた場合、たとい妻が無実であったとしても、夫のために、必ず取り扱かわなくてはならず、その方法を、主は示しておられる。
『「イスラエルの人々に告げなさい、『もし人の妻たる者が、道ならぬ事をして、その夫に罪を犯し、人が彼女と寝たのに、その事が夫の目に隠れて現れず、彼女はその身を汚したけれども、それに対する証人もなく、彼女もまたその時に捕えられなかった場合、
すなわち、妻が身を汚したために、夫が疑いの心を起して妻を疑うことがあり、または妻が身を汚した事がないのに、夫が疑いの心を起して妻を疑うことがあれば、夫は妻を祭司のもとに伴い、彼女のために大麦の粉一エパの十分の一を供え物として携えてこなければならない。ただし、その上に油を注いではならない。また乳香を加えてはならない。これは疑いの供え物、覚えの供え物であって罪を覚えさせるものだからである。』(民数記5:12-15)
ここには女性に不貞の疑いが生じた場合が記されているが、聖書には、男性が不貞を犯した場合の指示は、記されていない。
なぜなら、夫の「主人」は、全てを見ておられる全能の主であり、彼が不貞を犯す場合は、ダビデの場合のように、主ご自身がその罪を露わにされるからである。
しかし、妻の主人は、全能ではない男性であり、彼は妻が本当に不貞を犯したかどうかが分からないため、それを明らかにするために主はその方法を示された。
『その女を主の前に立たせ、女にその髪の毛をほどかせ、覚えの供え物すなわち、疑いの供え物を、その手に持たせなければならない。そして祭司は、のろいの苦い水を手に取り、女に誓わせて、これに言わなければならない、「もし人があなたと寝たことがなく、またあなたが、夫のもとにあって、道ならぬ事をして汚れたことがなければ、のろいの苦い水も、あなたに害を与えないであろう。
しかし、あなたが、もし夫のもとにあって、道ならぬことをして身を汚し、あなたの夫でない人が、あなたと寝たことがあるならば、―― 祭司はその女に、のろいの誓いをもって誓わせ、その女に言わなければならない。――主はあなたのももをやせさせ、あなたの腹をふくれさせて、あなたを民のうちの、のろいとし、また、ののしりとされるように。また、のろいの水が、あなたの腹にはいってあなたの腹をふくれさせ、あなたのももをやせさせるように」。その時、女は「アァメン、アァメン」と言わなければならない。』(民数記5:18-22)
こうして、女はその「のろいの苦い水」を、主の御前で飲む。
もし彼女が潔白なら、その水は害を与えず、かえって、彼女は子を宿すようになる。
そうでなく本当に彼女が不貞を犯したなら、その女のももは痩せ細り、腹がふくれ、彼女はのろいのしるしとなる。
通常、男が他人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も殺されなければならないが(レビ記20:10)、この場合、彼女は「のろいのしるし」として、共同体の中で生きなければならない。
不貞の疑いがかけられている間、妻にとっては苦しみの時であるが、主が、彼女の潔白を明らかにされ、それで夫の愛が以前にも増して戻って来て、しかも、子を宿すようになるからには、この「呪いの苦い水」は、後の彼女には幸いである。
同じように、私達も、主から試され、心の隠れた思いが明らかにされるために、御前で苦い水を飲まされるような時がある。
私達キリスト者は、男も女も全員、主の御前には「妻」という立場であり、他の神々を拝む事は、霊的姦淫である。
のろいの苦い水を飲んだ不貞の女は、腹が膨れ、ももがやせたように、私達も、主に対して隠れた不貞がある時、私達の健康や、経済、あるいは外見などに、必ず何かしらの変調が現れる。
その時は主に罪を告白し、悔い改めるべきである。主は、姦淫と殺人の罪を犯したダビデが自分の罪を主に認めた時、それを赦して下さったし、イエス様も、姦淫の現場で捕らえられた女を罪に定めず、「これからは決して罪を犯してはならない」と言われた。
主が、敢えて私達を苦々しい試練に遭わせられるのは、私達の心の中が明らかにされるため、私達が全き心で主に従い通すかを、探るためである。
『あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。』(申命記13:1-3)
のろいの苦い水には、聖所のちりが混ぜられたが、私達も、試練に会った時は、口をちりにつけ、主の御前でおとなしく、自分が「ちり」である成り立ちを思い返すべき時である。
『主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。彼は心から人の子を苦しめ悩ますことをされないからである。 』(哀歌3:28-33)
のろいの水の試練にあって、潔白が証明された時、夫の愛が戻って来て、以前にも増して愛され、さらに、子を生むようになった。
同じように私達も、主から試され、苦い試練を通され、そしてそれをパスしたなら、主からの寵愛は以前よりも増し、健康や経済など、いのちの祝福は増し加わるのだ。
だから私達は日々、主に対して、全き心であり続けるべきである。