メッセージ - ナジル人の誓い(民数記6:13-21)
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『これがナジルびとの律法である。聖別の日数が満ちた時は、その人を会見の幕屋の入口に連れてこなければならない。そしてその人は供え物を主にささげなければならない。すなわち、一歳の雄の小羊の全きもの一頭を燔祭とし、一歳の雌の小羊の全きもの一頭を罪祭とし、雄羊の全きもの一頭を酬恩祭とし、また種入れぬパンの一かご、油を混ぜて作った麦粉の菓子、油を塗った種入れぬ煎餅、および素祭と灌祭を携えてこなければならない。』(民数記6:13-15)
ナジル人が主に捧げている期間が満了した時、彼らは所定の捧げ物をする。
すなわち、罪のための犠牲を捧げて自らの罪を清め、また、焼き尽くす捧げ物を捧げて献身の思いを新たにし、また、和解のいけにえを捧げて、神と祭司と同じテーブルのごちそうにあずかる。
この和解のいけにえの際、その聖別した頭の髪を剃り、それを和解のいけにえの火にくべる。
ナジル人としての期間が短ければ、この時の髪はわずかで、期間が長ければ長いほど、それは結構な分量となるだろう。
そうして、所定の務めを主に果たした後、彼らは一般人のように、ぶどう酒を飲む事ができるようになる。
こうして見ると、ナジル人の生活にはかなりの制約があり、好きな事もあまり出来ず、期間が終っても、多くの捧げ物を捧げなければならずで、神を知らない人には、どうしてわざわざそんな立場に身を置くのか、と思うかもしれない。
しかし、キリストにあっていのちを得た人にとって、主に捧げられ、主のものとされている期間は、実に幸いである事を、経験しているはずである。
その人の所属先は、神にあり、守りの根拠も、必要の満たしの源も全能者にあり、しかも、神は決して変わる事の無い愛で愛され、全ての事を最善へと導いて下さるお方だ。
この御方に捧げている限り、決して物事を間違え無駄に過ごす事はなく、揺るがされない事も、心が飢える事も、渇く事も無い。
私達キリスト者は、キリストにあって神に捧げられた者達であるため、その大いなる祝福にあずかっているのである。
中には、自分を誇るため、人々から「すごい」と思われたいがために、断食したり、ナジル人のようになりたがる人もいるかもしれない。
しかし、断食や、ナジル人へと身を投じる事は、本来、主に対して自ら「聖別」する事である。
それは初めから終わりまで「主のためになすべき」ものであり、自分の誇りは一切入ってはならない。
断食や誓いは、むやみにすべきでない。御心でない断食や誓いは徒労以外の何者でも無いからだ。
パウロがエルサレムでユダヤ人達に捕らえられた時、ユダヤ人のうち、40人以上の者達が、パウロを殺すまでは飲み食いをしない、という誓いを立てた。(使徒23章)
しかし、神の御心は、パウロを生きながらえさせ、彼をローマへと連れて行き、カイザルや王達の前で、主イエスの証をする事だった。
結局、主は、パウロがみすみす殺されるような事は許されず、ローマ兵470名の護衛と、車つきで、パウロを安全な所へと護送した。
いかに多くの人間が、熱心や感情の高ぶりによって、パウロを殺すまでは飲食を断つ、という固い誓いを立てたとしても、主の御心に沿っていないなら、それは虚しく、徒労に終わるのだ。
『主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。』(詩篇127:1-2)
私達も、主の御心がどこにあるかを必ず探り、自分の心の動機をよく確かめ、御心でない誓いや、御心でない断食は、やめるべきである。