メッセージ - 祝福する祭司として(民数記6:22-27)
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『主はまたモーセに言われた、「アロンとその子たちに言いなさい、『あなたがたはイスラエルの人々を祝福してこのように言わなければならない。』(民数記6:22-23)
主は、祭司が民を祝福するべき言葉を、具体的に示された。
レビ記が学科であるとすれば、民数記は実技であるが、その実技教習は、いよいよ「祝福の仕方」にまで至った。
今までの実技教習の内容を、振り返ってみよう。
まずは「神の民」「神の部隊」としての登録が1章でなされ、ただの「荒野の民」から、登録された「神の民」へと転換し、2章では、神の部隊として、どの部族がどの位置に配置されるべきかが示され、秩序と規律をもって進み行くべきことを示された。
また、3章では、元々は、長男が「主のもの」とされていたのが、レビ人に転換され、主のものとされたレビ人への奉仕分担が4章で示された。
そして5章では、神が住まわれるイスラエルの宿営の中から、汚れを締め出す事が命じられ、また、最も親しくあるべき夫婦関係の中から、不信を取り除く方法が示された。
6章では、主にまったき献身を誓うナジル人に関する規定が示され、そしていよいよ6章の後半で、いかに民を祝福すべきか、という、祝福のことばの制定が為された。
主は順を負って、神の民としての整えを着実に為しておられるが、この順番は、キリスト者が神のものとされた時から始まる成長に良く似ている。
キリスト者が洗礼を受け、神のものとしてしるしを受けた後、生活のあらゆる面で、神の民としての秩序がどんどん与えられて行く。
次に、神の奉仕者としての役割が与えられ、その奉仕を忠実に為して行く内に、自らの中から汚れを取り除くようになり、さらなる献身へと導かれ、そして遂には、神の代理人として、人々を祝福するものとされていく。
「願わくは主があなたを祝福し、/あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安を賜わるように」(民数記6:24-26)
この祝福の文言は、何世紀にも渡って祭司によって宣言され、また、キリスト教界でも、何世代にも渡って、この言葉によって多くの聖徒達が祝福を受けてきた。
主の祝福の最たる事は、「主が共におられる」事である。
荒野での金の子牛の事件の時、モーセは主の御前にとりなしに行き、民は滅ぼされる事は無いという確約はとりあえずいただいたが、最初、主は、民と一緒には行かないと言われた。(出エジプト記33:1-3)
主に打たれずに済み、敵に勝利して乳と蜜の流れる地に入れる約束をいただいたのだから、主は共にいなくても、それで十分ではないか、と思うとしたら、よほど主を知らない者であり、よほどの恩知らずである。
主が共におられ、主の祝福があり、主の守りがあるという事は、全宇宙を創られた万能なる神が共におられるという事であり、主の守りの内に最善の道を歩ませ、主の最高教育の内に導かれて行く、という事である。
主は、驚くほどの憐れみによって私達を赦し、驚くほどの愛で私達を愛しておられる。
私達はその事にあぐらをかいて図に乗ったり、恵みをないがしろにしてはならない。
『こうして彼らがイスラエルの人々のために、わたしの名を唱えるならば、わたしは彼らを祝福するであろう」。』(民数記6:27)
ここは英語の聖書(KJV)では、イスラエルの子らの上に「わたしの名を置く」なら、わたしは彼らを祝福する、と記されている。
祭司が、イスラエルの会衆の上に「主の名を置き」、そうして祝福する。
それはあたかも、ハンコを押すようなものだ。
主は「わたしはある」と言われた。
主の名は「ある」である。
英語では「I AM THAT I AM」、すなわち、神は「存在する」という名前であり、在りて在る者、それが主のアイデンティティである。
英語で I am ○○ と言う時、わたしは○○である、という意味であるが、神はその○○の部分に、何でも入るお方だ。
主は全能であり、偏在であり、はじめであり、終わりであり、永遠である。
その素晴らしき主の名をハンコのように押された、という事は、世のどんな大統領のサインよりも遥かに強力な権威を持っている、という事であり、まさに、何でも持っている状態である。
この祝福の言葉は、何世紀にも渡って、祭司によって祝福されてきたが、私達キリスト者も、祭司という立場であり、家族のため、仕事場のために、祝福の祈りをする立場である。
そうであるからには、いたる所に、いたる場面で、偉大なる主イエスの御名によってハンコを押し、祝福すべきである。