メッセージ - 祝福とは(民数記6:22-27)
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前回に続き、祭司に与えられたこの祝福の命令をもう少し詳しく見て行きたい。
祝福という言葉は、聖書では良く出てくるし、教会でも良く使われ、クリスチャンもよく「祝福を下さい」と祈るが、そもそも祝福とは一体何だろう。
祝福は、必ず神様を通して与えられるものであり、神様を除外した人間が、身勝手な善悪判断によって定めた「これが私にとっての祝福」というものは、実は、自分も他人も、そして自然界をも、不幸に陥れてしまうものだ。
祝福のヘブライ語「バーラフ」の元々の語意は「ひざをつく」で、意味としては、「あがめる、かがめる、祝福する、ひざまずく、賛美する、ほめたたえる」である。
このバーラフが聖書で最初に登場するのは、聖書の最初の書の、最初の章からである。
『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを”祝福”して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。・・・神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。』(創世記1:27-31)
世界に罪が入る以前、神は、アダムと全生物が大いに生んで増えて行くようにと、主が自らがひざをついて便宜を図り、いのちが増え広がって行く様を応援した。
そして神様がその様をご覧になったところ、「はなはだ良し」と評価された。
しかし、アダムが神の言葉に背いて、善悪判断をしだした所、全被造物は呪われてしまった。
それ以来、被造物は神の子たちの現れを、うめきながら待っているのである。(ローマ8章)
神は、御言葉に服従し罪の問題を解決した人達が、繁栄し、増え広がり、地を治めていく事を望んでおられ、そのような人達を、ことさら祝福しようとされるのである。
事実、神は、罪を知らない時のアダムになされた、あの「生めよ、増えよ」の祝福を、ノアにも、アブラハムにも為された。
そして私達も、イエスキリストを信じる信仰によってアブラハムの子孫となるなら神の子とされ、神がアダムやノア、アブラハムに与えられたあの祝福で、私達を覆って下さるのである。
主が、祭司アロンを通して命じられた祝福の第一は、『主があなたを祝福し、あなたを守られ(シャーマル)るように。』(民数記6:24)である。
ここに出てくるシャーマルという言葉は「守る」という意味のほか、見張る、気をつける、という意味がある。
主の御心は、主の民とされた聖徒達が、生んで増えて行く事だった。
それ故、この第一の祝福は、あの創世当初の「はなはだ良かった」時のように、御心にかなった人達が、生んで増え広がって行くそのいのちを、主ご自身が見守り、サポートされますように、という祈りである。
第二の祝福は、『願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれる(ハーナン)ように。』(民数記6:25)である。
ここの恵む(ハーナン)という言葉は、憐れむ、情けをかける、という意味で、それは、具体的な行動がともなった同情で、新約のギリシヤ語の「スプランキニゾマイ」に相当し、それは字義通りには「はらわたがちぎれる思いで、かわいそうに思う」である。
つまり、ここの祝福は、主が輝いた表情をあなたに照らし、主のはらわたがちぎれる程の深い憐れみによって、情けをかけて下さるように、という祈りである。
第三の祝福は、『願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安(シャローム)を賜わるように』(民数記6:26)である。
「向け」という言葉は、「上げる」「支持する」という応援的な意味があり、また、シャロームという言葉には広範な意味があって、祝福の総称とも言える。
シャロームは挨拶の言葉であり、平和と安息を願う言葉であり、経済や子宝の繁栄や、健やかである事や、また、全ての面で満ち足り、充足し、満足し、そして知恵に満たされ、あらゆる悪や災いから救われ、敵や悪に対して勝利する事を、願い求める言葉でもある。
つまり、主がその眼差しを向けて支持し、家庭も経済も、知恵も力も、あらゆる面で充足し、健やかであり、平安で、あらゆる面で守られ、勝利するよう、主があらゆる面で応援して下さるように、という祈りである。
この民数記6:24-26の祝福は、何世紀にも渡って祭司がイスラエルの民を祝福し、また、キリスト者達が互いに祝福してきた、優れた言葉である。
私達も、キリストにあって祭司という立場を得たからには、大いにこの祝福の祈りを、家族に、仕事に、人生のあらゆる場面に対して、宣言するべきである。
しなければ損である。