メッセージ - 奉仕をする時はともし火をともせ(民数記8:1-4)
礼拝説教メッセージ音声:奉仕をする時はともし火をともせ(民数記8:1-4):右クリックで保存
『「アロンに言いなさい、『あなたがともし火をともす時は、七つのともし火で燭台の前方を照すようにしなさい』」。アロンはそのようにした。すなわち、主がモーセに命じられたように、燭台の前方を照すように、ともし火をともした。』(民数記8:2-3)
幕屋の聖所の中は、四重の幕で覆われていて、真っ暗である。
そのため、燭台の七つのともし火を照らさなくては、祭司は正しく務めができない。
同様に、私達・神の奉仕者も、全て、光が無くては正しく奉仕が出来ない。
その光とは、キリストであり、御言葉である。
そして教会は、暗闇の世を照らす燭台であり(黙示録1:20)、その燭台がいつも掲げているべき「光」が、キリストである。
『燭台の造りは次のとおりである。それは金の打ち物で、その台もその花も共に打物造りであった。モーセは主に示された型にしたがって、そのようにその燭台を造った。』(民数記8:4)
この、聖所を照らす燭台は、「打ち物」、すなわち、一つの金のかたまりを槌などで打って、燭台の形にしたものである。
キリストが神に打たれたように、私達も、時に神に打たれ、そうして神に有用な形をなしていく。
また、この燭台は「台」の部分も、「花」の部分もあって、全体が同じ一つの金で出来ているように、教会はキリストのからだで全体は一つであり、聖徒達一人一人は、各々違った役割が与えられている各器官である。
キリストの光なしの奉仕、御言葉の光なしの奉仕は、暗闇の中を手探りでうろついているようなもので、そういう人は、躓いたり、尊いものを壊してしまったり、いたずらに自らを傷つけるだけである。
パウロは、キリストの光に照らされる以前は、神に貢献していると信じて疑わずにいながらにして、実は神に反し、御子キリストを迫害している者だったが、キリストの光に照らされて以来、彼の奉仕は、正しく的を射るものへと変わった。
『わたしは、祭司長たちから権限と委任とを受けて、ダマスコに行ったのですが、王よ、その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである。」・・・
わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。』(使徒26:12-18)
キリストこそ、世を照らすまことの光であり、そしてキリストは、ロゴス(御言葉)なるお方である。
御言葉は光、私達の足元を照らすともしびである。このともし火をともしてこそ、私達はつまづく事なく正しく道を歩む事が出来るのだ。
時には、御言葉が良く分からない時もあるが、いつかそれが光を放つ時が来る。その時まで、その御言葉に目を留めているべきである。
『こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。』(2ペテロ1:19)
この御言葉を私達に分からせて下さるのは、聖霊によるのであって、人間の知恵や力によるのではない。(同20-21節)
そして、燭台の光をともし続けるためには、その燃料である油、すなわち、聖霊の油が必要である。
10人の花嫁の中、5人の愚かな乙女は、ともし火は持っていたものの、油を用意しておかなかったために、花婿を迎えるべき大事な時に灯しておく事が出来ず、花婿に迎えてもらえなくなってしまった。
いくら御言葉の光を持っていたとしても、御言葉を守る事が持続できない人は、聖霊の油の蓄えが無い人だ。
そういう人は、「油絞り」の祈り、すなわち、「ゲッセマネ」の祈りをするのである。
主はゲッセマネで、「自分の願う所ではなく、御父の御心のままに」と祈り、自分を降ろして御父の御心に委ねた。
私達も自分を降ろし、自分の道を御心に譲るなら、どんどん油が滴って、蓄えられて行くのだ。