メッセージ - 悲しみをくぐり抜けて示された愛(マルコ14:32-42):礼拝説教メッセージ音声 韓国語通訳あり
悲しみをくぐり抜けて示された愛(マルコ14:32-42):礼拝説教メッセージ音声 韓国語通訳あり
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-12-28 6:30
礼拝説教メッセージ音声:悲しみをくぐり抜けて示された愛(マルコ14:32-42):韓国語通訳あり(右クリックで保存)
ゲツセマネは油絞りという意味があり、イエスは文字通り圧搾され、涙と血の滴りのような汗を絞られた。
彼は十字架と死を恐れて祈っていたのではなく、死ぬほど悲しみながら(マルコ14:34)である。
彼は世は始まる以前から御父と片時も離れる事無く、愛の内に親しく交わっておられたが、その御父から、十字架上で完全に見捨てられるのである。(マルコ15:34)
だから死ぬほど「悲しく」、3回も祈ったのだ。
死ぬほどの苦しみの時、最も近くに居て欲しい時に、完全に断絶されるのだ。私達にそのような絶望的な痛みと断絶が提示されるとしたら、耐えられるであろうか。
本来、私達が罪を犯したため、その罰を受け、断絶され、十字架で磔にされるべきなのであるが、しかし、彼が私達の身代わりとなって下さった。
神様は全能だから、イエス様にこんな苦しい悲しい目に遭わせず人類を救う事ができたであろう。
人は思う。なぜラクな方法を取らず、こんなに回りくどく、究極的に割りに合わない方法を取られたのだろうか。
そのような痛みと苦しみを通して、それほど人を愛しておられる事を、私達に示すためである。
しかし人は御心を知らず、弟子達は3回も眠ってしまった。
イエス様は神様なのに、なぜ女々しく命乞いをしたのだろうか、という議論があるが、もし、肉親が自分を助けるために、命がけで身を挺して傷を負ったとしたら、私達は「親なのだから助けて当然」と思って良いだろうか?
命がけで守ってくれた親に対して「大人だから傷の痛みに涙を流すのはおかしいのではないか?」などと、第3者のように思うだろうか?
神なのだから命がけで痛みを負うのはおかしい、あるいは、神は痛まないし悲しまない、と、人は思う程、神について知らないのだ。
神も痛むし、悲しむ。
女は苦しんで子を産んで、その子を見て満足するように、イエス様は、自分の苦しみの跡を見て満足する。(イザヤ53:11)
母親が子を見るように「私の痛みを通じて産まれてきた愛する子、私の血といのちを分けた、尊い私の子」、そのように、私達を見て満足されるのである。
イエスの愛の広さ、高さ、深さをさらに知る皆さんでありますように、イエス様の名前で祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2010