メッセージ - 霊的負け組のパターン:御心に自分の提案を混ぜる(民数記13:1-16)
霊的負け組のパターン:御心に自分の提案を混ぜる(民数記13:1-16)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 民数記
- 執筆 :
- pastor 2013-9-11 21:12
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民数記の13から14章にかけては、イスラエル民族にとって最も忘れてはならぬ戒めの箇所であり、それは私達にとっても同じである。
なぜなら、イスラエルの民は、必ず占領できるという主からのゴーサインをいただき、その地からもう目と鼻の先の所に来て、あとはそこに入って占領するだけ、という場面まで来ていたのに、彼らは余計な事をし、余計な判断をしてしまい、結局、その世代の人は約束の地に入れず、子の世代にも38年もの放浪をさせてしまったからだ。
私達も、主が今にも幸いと祝福を与えようとしておられるのに、余計な事をしてしまったり、主の言葉に余計な判断を混ぜ込んでしまって、せっかくの祝福を自ら拒んでしまう、というような事が「ありがち」である。
『主はモーセに言われた、「人をつかわして、わたしがイスラエルの人々に与えるカナンの地を探らせなさい。すなわち、その父祖の部族ごとに、すべて彼らのうちのつかさたる者ひとりずつをつかわしなさい」。』(民数記13:1)
ここを見ると、カナンの地に入る前に斥候を遣わすように命じられたのは、主だったかのように思えるが、そうではない。ここに至るまでの経緯は、申命記に記されている。
『われわれの神、主が命じられたように、われわれは、ホレブを出立して、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を通り、アモリびとの山地へ行く道によって、カデシ・バルネアにきた。その時わたしはあなたがたに言った、『あなたがたは、われわれの神、主がお与えになるアモリびとの山地に着いた。見よ、あなたの神、主はこの地をあなたの前に置かれた。あなたの先祖の神、主が告げられたように、上って行って、これを自分のものとしなさい。恐れてはならない。おののいてはならない』。』(申命記1:19)
イスラエルの民は、約束の地カナンからは、もうあと目と鼻の先のカデシュ・バルネアにまで来ていた。
そこで主は、カナンの地は既にあなた方の手に渡している、だから行って、自分のものとしなさいと言われており、モーセも、既に勝利宣言を出していた。
あとは実際に行って、勝利を受け取るだけ、という場面である。
そこに民は、余計な提案をした。
『あなたがたは皆わたしに近寄って言った、『われわれは人をさきにつかわして、その地を探らせ、どの道から上るべきか、どの町々に入るべきかを、復命させましょう』。』(申命記1:22)
自分達がそこに入る前に、事前にリサーチさせてほしいという提案は、極めて常識的で、まっとうである。
しかし、主の導きの下にある生活では、主が既に「これをせよ」と命じられている状況下で、自分でも判断がしたいがためにリサーチする事は、御心に不純物を混ぜ込む事であり、主の御業を阻害してしまう事なのだ。
『このことは良いと思ったので、わたしはあなたがたのうち、おのおのの部族から、ひとりずつ十二人の者を選んだ。』(申命記1:23-26)
モーセはこの時、それは良いとおもった。
なぜなら、その土地がいかに良い所かを、彼らが探り見れば、民はますますその土地に入るのが楽しみになり、士気がますます鼓舞されるだろう、と思ったからである。
実際、ヨシュアとカレブはそのような反応をしたし、モーセとしても、民がまさかそれ以外の反応をするとは、考えつかなかったのかもしれない。
『モーセは主の命にしたがって、パランの荒野から彼らをつかわした。その人々はみなイスラエルの人々のかしらたちであった。彼らの名は次のとおりである・・・。』(民数記13:3-4)
ここでイスラエルの人々のかしら達の名が上がっているが、その中に、ヌンの子ホセアがいる。
ホセアはこの時、モーセによって「ヨシュア」という新しい名を付けられた。
ホセアの名前は「救い」という意味、ヨシュアは「主は救い」という意味である。
ヨシュアの親はもしかしたら、彼が生まれた時、自分で自分を救えるような強い者となって欲しい、という願いを込めて、名づけたのかもしれない。
しかしモーセは、主こそ救いの拠り所であるとし、彼には、その名の通りになって欲しいと思って、新しい名をつけてから、斥候として遣わしたのかもしれない。
彼の名前は、重要である。救いは、自分の力には無い。主にのみ、救いがあるのだ。
自分の力や知恵を、救いの源とする所には、罠が潜んでいる。
会社の会議などでは、自分の提案を主張して人々を説得する事は当たり前のように行われ、それがうまく出来る人が出世するものだが、神の国では、逆である。
御言葉の真理に対し、自分の良かれと思った事や、自分の提案を混ぜ込む事は、霊的負け組のパターンである。
ヨシュアとカレブ以外は、その罠に陥ってしまい、ここぞという時に、約束の地に入る事を、自ら拒んでしまった。
見える所によってではなく、主の御言葉の約束に依り頼みつつ歩み、生きていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!