メッセージ - 民の"不信仰"告白(民数記14:1-9)
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『そこで、会衆はみな声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。』(民数記14:1-3)
12人の斥候がもたらした報告を、民は「悪い方」に受け止めた。
それも、声をあげて叫び、夜通し泣き明かす程に。
主は、彼らの先祖アブラハムに現れ、この地を継がせようと400年も前から約束されておられるのに、そして今や、その地まではあと一歩なのに、彼らはこの期に及んで「エジプトの国で死んでいたらよかった」「この荒野で死んでいたらよかった」「主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされる」「エジプトに帰る方が、むしろ良い」とまで言ったのだ。(民数記14:2-3)
なんという「不信仰告白」だろう!
『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。』(箴言18:20)
箴言のこの言葉が真実である事を、私達は、じき知るようになる。
『彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。』(民数記14:4)
彼らは、ミリヤムの一件を見ていたはずである。神が立てられた権威・モーセに逆らった結果、ミリアムの身に何があったかを。
それなのに、そのモーセを退け、別の指導者を立てて、エジプトの戻ろうと言う。
そのエジプトは、400年もの間、イスラエルを奴隷として酷使し、男の子が生まれたらナイル川に投げられ、それ程の圧制の中で苦しめられている所を、主が、力強い御手でエジプトを打ち、そこから救い出されたというのに。
主は、荒野でも数々のすばらしいわざによって民を養い、パンと水を与え、主に逆らう者には、災いが下った。
タブエラでは、民のつぶやきの故に主の火が燃え上がり、キブロテ・ハタアワでは、主を軽んじ肉欲に駆られた者達の墓が立ち、ハツェロテでは、モーセの権威を軽んじたミリアムがツァラアトにかかったというのに、彼らは相変わらず、主を畏れるという事をしなかった。
そして民が、恐ろしいほどの不信仰告白を為し、主とモーセへの反逆の言葉をつぶやいているが、この時点で、主はまだ何も仰せられない。
モーセとアロンは、民に即答する事なく、主に向かってひれ伏した。(民数記14:5)
ひれ伏しているその姿は、人には弱さの極地と見えるかもしれない。
しかし主の御前にひれ伏す事こそ、御前に最も偉大な姿勢である。
民がめいめい叫んでいる内容やその態度が、いかに主の御前に罪深く、御怒りを引き起こすものであるのかを熟知しているため、何よりも先ず主にひれ伏し執り成す事が、最優先事項なのだ。
アロンもひれ伏しているという事は、彼も、ミリヤムの一件以来、御前に謙遜に執り成す事の大切さを学んだのだろう。
『このとき、その地を探った者のうちのヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、その衣服を裂き、イスラエルの人々の全会衆に言った、「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。』(民数記14:6-9)
モーセとアロンが主にひれ伏している中、ヨシュアとカレブが立ち上がった。
二人は衣を引き裂いた。民の不信仰が悲しく、やるせなく、憤りを覚えたのだろう。主があんなにも力強く敵を倒し、恵みを与え、逆らう者を滅ぼした事を、どうして皆、それが無かったかのような反応をするのだろう、と。
彼らは、その地がいかに良い地であるか、また、主が我々と共におられるなら、主が勝利させて下さり、その地を手に入れさせて下さる事を、力説した。
主に信頼して進み行こうという意見は、わずか四人。進み行かずエジプトに戻ろうという意見は、およそ六十万人。
この場面は、多数決として見ると、どう見ても敗北である。
しかし主は、人間の多数決で、御心を動かされるお方ではなく、主の真実がある側に、味方される。
たといそれが、4人対、600000人であったとしても、4人の側に真実があるなら、主は600000人のほうを退け、4人の側につかれるのだ。
それ故、私達は、たとい大勢を前にしても、主の真実を告白すべきである。