メッセージ - これぞ「執り成しの祈り」(民数記14:10-19)
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『ところが会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした。』(民数記14:10)
モーセとアロンの必死の執り成しに、また、ヨシュアとカレブの必死のすすめに、イスラエルの民が報いようとした事は、「石打ち」だった。
ひれ伏して執り成しているモーセ達に、民が石を投げようとしたその時、主の栄光が、会見の幕屋からイスラエルのすべての人に現れた。
『主はモーセに言われた、「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがもろもろのしるしを彼らのうちに行ったのに、彼らはいつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病をもって彼らを撃ち滅ぼし、あなたを彼らよりも大いなる強い国民としよう」。』(民数記14:11-12)
普通の人なら、「ぜひそうして下さい、こんなに聞き分けのない、文句ばかり言うような民はさっさと滅ぼして、私を栄えさせて下さい」とでも言いたい所であろう。
しかし、彼の対応は、逆であった。
『モーセは主に言った、「エジプトびとは、あなたが力をもって、この民を彼らのうちから導き出されたことを聞いて、この地の住民に告げるでしょう。彼らは、主なるあなたが、この民のうちにおられ、主なるあなたが、まのあたり現れ、あなたの雲が、彼らの上にとどまり、昼は雲の柱のうちに、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前に行かれるのを聞いたのです。』(民数記14:13-14)
モーセの言葉の主語は、自分でも民でもなく、あくまで「あなた(主)」だった。
彼は、逆らった民への報復も、自分の栄えや守りも、一切求めなかった。
ただ、主がどのようなお方であるか、そして、今まで主がどのように栄光を受て来られたかを、思い起こさせた。
『いま、もし、あなたがこの民をひとり残らず殺されるならば、あなたのことを聞いた国民は語って、『主は与えると誓った地に、この民を導き入れることができなかったため、彼らを荒野で殺したのだ』と言うでしょう。』(民数記14:15-16)
モーセは、民を滅ぼす事の無いよう、主に執り成している。
主よ、あなたの栄光は、既に、全地に語り継げられています。つきましては今、もしここで民を殺されるのでしたら、主は民を導く事を出来ずに荒野で殺した、という、不面目な噂が立つでしょう、それではあなたの栄光にはなりません、という論法である。
『どうぞ、あなたが約束されたように、いま主の大いなる力を現してください。』(民数記14:17)
ここは、伝統的な英訳聖書(KJV)では
「あなたに願います。どうか、力の主は、偉大であられて下さい。あなたがおっしゃられた通りに」
という意味であり、モーセは、主はその偉大な御名にふさわしく、不名誉な噂さえ流れるような事は、なさらないで下さい、と願っているのである。
『あなたはかつて、『主は怒ることおそく、いつくしみに富み、罪ととがをゆるす者、しかし、罰すべき者は、決してゆるさず、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼす者である』と言われました。どうぞ、あなたの大いなるいつくしみによって、エジプトからこのかた、今にいたるまで、この民をゆるされたように、この民の罪をおゆるしください」。』(民数記14:18)
さらにモーセは、主がかつて語られた御言葉を人質に取り、それを盾に取って、主の慈しみを求め、赦しを求めた。
これこそ、「執り成しの祈り」である。
私達は何かと「あの人を救って下さい」「赦してください」「ください、ください」といった願い言葉を、何百遍も繰り返しがちだが、聞かれる祈りとは、人間の何かを押し出すものではなく、主がどなたであるか、主はどのような御言葉を語られたかを盾に取る祈りこそ、聞かれる祈りである。
モーセの祈りの中には、イスラエルの民の良さをアピールする言葉は、何一つ無かった。事実、そうだから。
彼はその代わり、「あなた」という言葉を幾度も繰り返し、主を主語として祈り、主の憐れみに訴えている。
主が真実だから、主が憐れみ深く赦しに富みたもうお方だから、赦してください、と。
そのように祈った結果、その祈りは、聞かれた。
私達も同様に、主の御前に誇れるものは、何一つ無い。
だから私達は、自分の義を主張する事なく、ただ自分の心を全て晒して主の憐れみにすがるのみである。
主は、パリサイ人の「私は週に二度断食し、捧げ物はちゃんと納めています」的な祈りは聞かれず、ただ、胸を打ち叩いて自分の罪を悲しみ、主の憐れみを乞うた取税人の祈りを聞かれ、義として下さるお方なのだ。(ルカ18:10-14)