メッセージ - 主に聞き従わない事の報い(民数記14:20-25)
礼拝説教メッセージ音声:主に聞き従わない事の報い(民数記14:20-25):右クリックで保存
『主は言われた、「わたしはあなたの言葉のとおりにゆるそう。』(民数記14:20)
主はモーセの執り成しを聞き入れ、赦して下さった。
しかし人は、自分が為した事の報いは、当然受けなければならない。
イエス様を信じれば罪赦されるから、好き放題の事をやって良いのだ、と、「赦し」を勘違いしているクリスチャンは多い。
確かに主の御前に罪は覚えられないが、人が罪の行いをした結果は、必ず刈り取らなくてはならない。
クリスチャンがたばこを止めなかったら、健康を害するリスクが減少するわけではないし、クリスチャンが銀行強盗を犯したら、銀行強盗を犯したなりの刑罰は、当然受けなければならない。
『しかし、わたしは生きている。また主の栄光が、全世界に満ちている。』(民数記14:21)
主の栄光は、全世界に満ちている。
彼らが宿営のテントの片隅で呟いた事でも、大群衆の中でぼそっと言った一言でも、主の耳は聞いておられ、主の目は見ておられる。
わたしたちが喋った言葉も、隠れて行った行動も、全てそうである。
『わたしの栄光と、わたしがエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった人々はひとりも、わたしがかつて彼らの先祖たちに与えると誓った地を見ないであろう。またわたしを侮った人々も、それを見ないであろう。』(民数記14:22-23)
荒野の民は、主の栄光を見た。主の恵みを、食べた。主の素晴らしさを、体験した。
それでも主を「十度も」試みて(原意:試す、テストする)、主が御業をなされても、なお御声に聞き従わなかった。
彼らがそのように為した事への報い、それは、主が与えると誓った地を見れない事である。
しかし、後になって分かるが、主はまだその事を確定した訳ではなかった。
主は、ニネベの町の滅びを、預言者ヨナを通して語られたが、ニネベがその預言で行いを悔い改めると、主はその災いを思い直された。
同じように、イスラエルの民がここで悔い改めていたら、きっと、約束の地に入る余地は、まだあっただろう。
主は、イスラエルの民は「十度もわたしを試みた」と言われた。
十という数字は、「わずかな」数ではないが、数え切るのに、そう時間のかからない数字である。
主に三度、四度、試みに怒らせるような事をしてみても、何も罰せられないのを見て、主はずっとゆるして下さる、と、勘違いし、好き放題したりしていると、そう遠くはない将来に、赦しのリミットが尽きてしまうようである。
主は、彼らは「しるし」を幾度も「見た」と言っておられる。
キリスト者の中にも、主のしるしを見たい、奇跡を体験したい、と言う人がいるが、奇跡を見たり、体験したりすれば、信仰がレベルアップすると思ったら、大間違いである。むしろ、逆である。
しるしや奇跡がなければ、信仰の行動ができないようでいては、その信仰は、かなりレベルダウンしている。
聖書中、主のしるしや奇跡を、最も多く見、最も体験した、あの六十万の人々の内、何人が約束の地に入れただろうか?わずか二人だった。
この事からも、主のしるしを見れば良いというものではない事が分かる。
主イエス様は、見ないで信じるものは幸いだ、と言われた。
大切なのは、しるしや奇跡を「見る」事ではない。御言葉を「聞いて、従う」事である。
『ただし、わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有するにいたるであろう。』(民数記14:24)
暗澹とした今回の箇所で、唯一、光輝いている節である。
カレブは、違った心(原意:霊)を持っていた。
つぶやきの霊、恩知らずの霊、の集団の中に、主に聞き従う霊という光があった。
私達も、邪悪な世代の中にあって、主に聞き従う「霊」を持ちたいものである。
では、どのようにすればそれが注がれるだろうか。箴言一章に、以下の言葉がある。
『知恵は巷に呼ばわり/広場に声をあげる。雑踏の街角で呼びかけ/城門の脇の通路で語りかける。「いつまで/浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち/不遜な者は不遜であることを好み/愚か者は知ることをいとうのか。立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら/見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ/わたしの言葉を示そう。』(箴言1:20-23 新共同訳)
ここにあるように、知恵の言葉である御言葉に立ち返り、御言葉からの懲らしめを受け入れるなら、主の霊が注がれ、ますます知恵の言葉が示される。
しかし、懲らしめをないがしろにする者には次のように言われている。
『彼らは知ることをいとい/主を畏れることを選ばずわたしの勧めに従わず/懲らしめをすべてないがしろにした。だから、自分たちの道が結んだ実を食べ/自分たちの意見に飽き足りるがよい。浅はかな者は座して死に至り/愚か者は無為の内に滅びる。わたしに聞き従う人は確かな住まいを得/災難を恐れることなく平穏に暮らす。』(箴言1:29-33)
知恵の言葉を退ける者は、自分の「道」が結んだ実を食べ、自分たちの意見に飽き飽きする事になる。
彼らは、自分の蒔いた種が結んだ実を食べるが、それは死に至り、滅びに至ってしまう。
『谷にはアマレクびととカナンびとが住んでいるから、あなたがたは、あす、身をめぐらして紅海の道を荒野へ進みなさい」。』(民数記14:25)
主は最後に、イスラエルの民が進みたかった「道」、すなわち、紅海への道へと進み行きなさい、と命じられるが、それでイスラエルの民が「やった、望みどおりエジプトに戻れるぞ」と思ったかというと、そうではない。
結局彼らは、自分の「道」が結んだ実を食べ、自分たちが身勝手にわめいていた「意見」に、飽き飽きする事になったのだ。
私達は、主の叱責をしっかり受け入れ、カレブのように、世の民とは違った霊、主に聞き従う霊を持ち、約束の地を受け継ぐものでありたい。