メッセージ - とんちんかんな人の特徴(民数記14:37-45)
礼拝説教メッセージ音声:とんちんかんな人の特徴(民数記14:37-45):右クリックで保存
『モーセが、これらのことを、イスラエルのすべての人々に告げたとき、民は非常に悲しみ、、、』(民数記14:39)
彼らは、主の約束された地に入れない事が確定してしまった事を、悲しんだが、そんなに深刻に悲しんだわけではなかったようだ。
11章では、大勢の人達が宿営のあちらこちらで「ああ肉が食べたい」と泣いていたし、14章のはじめでは、約束の地には力の強いアナク人がいると知らされた時は、会衆みな声をあげて叫び、夜どおし泣き明かしたが、それらに比べると、悲しみの表現の度合いは、明らかに小さい。
結局、彼らにとって、主の約束の土地を受けられなくなった事には、あまり深刻さを覚えず、むしろ、自分の腹の欲求や、ほしいままの思いが満たされない事のほうが、より大きな悲しみなのだ。
彼らの悲しみは、御心に添えなかった事を悔いるものでも、自分の罪を悲しむものでもなく、ただ、自分の望みが叶えられない事への悲しみだった。
その証拠に、彼らは早速、次のように言っている。
「わたしたちはここにいる。さあ、主が約束された所へ上って行こう。わたしたちは罪を犯したのだから。」(民数記14:40)
彼らはモーセやカレブの勧めを、そして、主の命令を、ことごとく拒否し、モーセ達を石で撃ち殺してでも、エジプトに帰ろう、と言っていた。
ところが、いざ、主が「葦の海を引き返せ」と、すなわち、エジプト方面へと戻れと言われると、今度は手のひらを返したように「さあ、主が約束された所へ上って行こう」と言いだす。
なんという、とんちんかん、なんと御心に逆行してばかりいる民だろうか!
自分のやりたい事で頭がいっぱいで、ウズウズしているような人は、いつもその通りである。
『しかし、彼らは、ほしいままに山の頂に登った。ただし、主の契約の箱と、モーセとは、宿営の中から出なかった。そこで、その山に住んでいたアマレクびとと、カナンびとが下ってきて、彼らを撃ち破り、ホルマまで追ってきた。』(民数記14:44-45)
彼らは「ほしいままに」自分で決めた道を貫こうとした。
主の箱と、モーセは、宿営にとどまり、そちらに「行かない事」が御心であると、はっきり示されているのに。
それでも彼らは行ってしまい、あっけなく、返り討ちにあってしまう。
彼らは、山の頂を越えて約束の地に攻め入るのが「良いこと」だと思ったのだ。
主は確かに、かつて、そこに攻め上れ、と、言われた事はあった。
しかし、彼らが思う「良いこと」が、主の御前にも「良いこと」であった時期は、もはや、その前日に終わってしまっており、今や、攻め入る事のほうが「悪いこと」となっているのだ。
私達も、そのような過ちを犯しやすい。
伝道する事が良いこと、礼拝を捧げる事が良いことだと思って、無鉄砲に飛び込み、かえって、物事を悪くしてしまう事がある。
パウロは、第二次宣教旅行の時、前回はアジヤでの伝道が成功したから、今回もアジヤで頑張っていたのに、行く先々、聖霊によってはばまれ、大した成果も無いまま、千キロ以上もさまよう事になった。主の御心はその時、アジヤではなく、マケドニアにあったのである。(使徒16章)
サウル王は、預言者サムエルをただ待つべき時に、待っていられず、礼拝を捧げることが良い事だと考え、勝手にいけにえを捧げてしまい、それで御心を損ねてしまった。
クリスチャンは、伝道も礼拝もいけにえも、両手放しで「良いこと」だと思っている。
しかし、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。そして、御声にそむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪である。(1サムエル15章)
料理には賞味期限があるように、御声に聞き従い、それを行う事にも、期限があるのだ。
賞味期限切れのものを食べたらお腹をこわすように、”御心期限切れ”の行いは、ただ自分を滅ぼすだけだ。
何事にも、定まった時がある。(伝道者の書3章)
主のなさる事が美しいのは、時に叶った事をなさるからだ。
しかし自分の事で頭がいっぱいの人は、御心を無視し、美しくない事、見苦しい事、とんちんかんな事をする。
とんちんかんな事をするコツは、主の声や他人の声に「耳を貸さない」事であり、時に叶った美しい事をするコツは、主の声や他人の声に、よく「聞き耳を立てる」事である。
主の時を見極め、時に叶った美しい事を為し、神と人とを喜ばせ、祝福を得る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!