メッセージ - 罪が示された時は(民数記15:22-30)
礼拝説教メッセージ音声:罪が示された時は(民数記15:22-30):右クリックで保存
『あなたがたが、もしあやまって、主がモーセに告げられたこのすべての戒めを行わず、主がモーセによって戒めを与えられた日からこのかた、代々にわたり、あなたがたに命じられたすべての事を行わないとき、すなわち、会衆が知らずに、あやまって犯した時は、全会衆は若い雄牛一頭を、燔祭としてささげ、主に香ばしいかおりとし、これに素祭と灌祭とを定めのように加え、また雄やぎ一頭を、罪祭としてささげなければならない。』(民数記15:22-25)
ここは、故意にではなく、知らない間に罪を犯した場合の教えであり、御言葉の光に照らされ、それが明らかになった際には、罪のためのいけにえを捧げる事が、定められている。
罪が人目に隠れていて、自分達は実は罪を犯していた、という事に、たとい気付いていなくとも、御言葉で定められた事に違反していたのであれば、それは、主の御前に悔い改める必要がある「罪」である。
罪の意識が無いのに「それは罪だ、悔い改めよ」と言われても、実感が沸かず、悔い改める気がさらさら無い人もいるが、自分が罪を犯したかどうかという判定は、御言葉が示すものであって、自分の実感に拠るものではない。
そして、自分が罪を犯した事を、悲しみ、悔やみ、恥ずかしく思う気持ちなどは、聖霊によって与えられる。
私達の内にある罪が、明らかにされたなら、私達は、真正面からその罪に向き合って、対処しなくてはならない。
なぜなら、罪がある状態では、神との隔てがそのまま残る状態であり、サタンに訴えられる口実を、そのまま持ち続ける事だからである。
対処せずにそのまま放置する時間が長ければ長い程、神様との間の隔ての壁はますます厚くなり、主の声を聞く感受性がますます鈍くなっていき、ますます祝福されない体質となってしまう。
『もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。』(1ヨハネ1:8-10)
それだから、一刻も早く主との健全な関係を取り戻すために、一刻も早くラクになるために、罪の告白と悔い改めは、すみやかに為すべきだ。
次に、故意に罪を犯す場合についての教えである。
『国に生れた者でも、他国の人でも、故意に罪を犯す者は主を汚すもので、その人は民のうちから断たれなければならない。彼は主の言葉を侮り、その戒めを破ったのであるから、必ず断たれ、その罪を負わなければならない。』(民数記15:30)
故意に、すなわち、それが罪であり主が忌み嫌われる事を知らされつつも、平気で、好き好んでその罪を犯し続ける場合は、民の中から「断たれ」、その罪を負わなくてはならない。
たとえば、御言葉の光に照らされ、自分の中の罪が明らかになった場合、罪祭のいけにえを捧げる事を億劫がったり、あるいは「だって、しょうがないじゃないか!」「そんなこと知らない!」と逆ギレしたり、といった場合も、そうである。
その教えは、他国人であろうとイスラエル人であろうと、同じであり、現代を生きるキリスト者に対しても、同じである。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)
「絶たれる」の言葉の意味は「捨て去る」「追放される」という意味もあるし、「抹殺される」という意味もある。
私達は、主の民から追放されていない今の内に、恵みと憐れみが示されている今の内に、すみやかに悔い改めるべきである。