メッセージ - 栄光の家系の女達 – ルツ3 驚くばかりの恵み(ルツ記2章)
栄光の家系の女達 – ルツ3 驚くばかりの恵み(ルツ記2章)
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ルツが飛び込んだ畑は、はからずも、彼女の家を絶やさぬ責任のある親族の一人、ボアズの畑だった。
ボアズは、私達を買い取ってくださるイエス・キリストの雛型であり、そのボアズの畑は、主イエスキリストが支配される神の王国の特徴そのものである。私達も、イエス様を主とし、神様を中心とした新しい生き方へと飛び込むなら、神のものとされ、王族の息子や娘のように、主からの特別扱いを受けるようになるのだ。
私達は主から、どのような特別扱いを受けられるのか。それは、ボアズがルツに為した通りである。
今回、主イエスを信じ神の国に飛び込んだ私達は、どれ程の特別待遇を受けられるのか、見て行きたい。
ボアズの畑には豊かに恵みの落ち穂が落ちており、祝福の挨拶が交わされている。(4節) しかし、ボアズの畑以外に入っても、そこは落ち穂は残っていなかったり、たとい落ち穂が落ちていたとしても、そこの人にいじめられたり、刺々しい雰囲気だったりする。主を除外して渡る世間は、鬼ばかりである。
私達のボアズである主イエス様は、私達に、他の所に行ったりせず、主の元にいる娘たちと共にいなさいと語りかけられ(8節)、主の働き人たちが、いのちの刈り取りの働きをしている後について行って、そのおこぼれに与りなさい、と言われる。私達は、そのいのちの恵みと祝福のおこぼれに、十分与かれるばかりでなく、私達が恵みを拾う事の邪魔をしないよう、主は周りにきつく命じて下さり、渇いたなら、主のしもべが汲んでくれた水から、存分に飲んで良いと言って下さる。(9節、イザヤ55:1、ヨハネ7:37)
ルツはボアズの優しい言葉に驚いたが、私達が主から頂く恵みは、本当に、驚くばかりである。
主はなぜ、恵みを受けるに値しないような私達に、そこまでの恵みを注いで下さるのか。
『ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れ、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。』(11節)
ボアズが言ったように、主は、私達が主の聖徒達にした事を、すっかり見聞きしておられる。主の弟子だという事で、たとい、小さな子どもの一人に水一杯でも与えるなら、その報いからこぼれ落ちる事は無い。
もし私達が今まで生きてきた世の価値観から離れ、主を頼り、主の元に来るなら、私達のボアズである主は次のように祝福して下さる。「どうぞ主があなたのしたことに報いられるように。どうぞイスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように。」(12節)
ルツはボアズに、実に謙虚な感謝をしたが、それでボアズは、さらなる恵みの命令を、しもべ達に命じる。
私達も、主が下さった恵みに感謝し、謙虚に喜ぶなら、主はさらなる恵みを命じて下さる。しかし、与えられた恵みを当たり前のように受け、何の感動も礼もなく、傲慢に振る舞うなら、恵みはそこでストップしてしまう。
ボアズは、ルツに炒り麦をたっぷり与え、ルツは食べ残した余りをナオミに持って帰るほどに満たしたが、主も、私達の渇いた心を満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされる。(詩篇107:9)
『ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」』(15,16節)
私達も、ルツのようにへりくだるなら、主は私達にさらなる恵みの深きへと導いて下さり、しかも、本来なら主の倉に入るべきものさえ、抜き取って、私達が拾えるように、わざと落として下さる。
主は、私達がそれを拾う事に、何の咎めも無いようにし、そうして私達は、大胆に恵みの座に近づき、折にかなった助けを、存分に得る事を許されるのだ。(ヘブル4:15-16)
ボアズの畑に入ったルツは、その日だけでも、二十三リットルもの大麦と、ボアズ自身から頂いた炒り麦を、ナオミの元に持ち帰り、主から見放されたような気持ちだったナオミに、主の恵み深さを再び気付かせた。
ナオミは、ボアズが「わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人」であると言った。(20節)
新共同訳で「家を絶やさないようにする責任のある人」と訳された言葉はヘブル語で「ゴエル」、「買い戻す責任と権利のある人」とも「最も近い親戚」とも訳す事の出来る言葉であるが、主イエス様こそ、私達の家を絶やさぬ責任のあるお方である。主は、私達の人生を、いのちへと買い戻してくださるお方である。
ボアズの特徴こそ、私達の主の特徴であり、主は私達の仕事を祝福して下さるだけでなく、家族をも満ち足らせて下さり、「こんなに恵まれて良いのだろうか」と、逆にこわくなってしまう程に、恵んで下さるのだ。