メッセージ - 栄光の家系の女達 - ルツ4 栄光の家系の婚活(ルツ記3章)
栄光の家系の女達 - ルツ4 栄光の家系の婚活(ルツ記3章)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
ルツ記3章は、ルツの結婚のための「婚活」と言える。
世の中の”婚活”は、いかに自分好みの、いかに条件の良い相手を見つけて、いかにやりくりしてそのような人との結婚へ持っていくか、というイメージがあり、その相手選びの判断基準は「自分中心」である。
しかし、神の民の婚活は、その真逆である。神の民の婚活は、イサクの結婚の時のように、自分の好みや意志は一切関係なく、霊的指導者や親に一任し、主の御心を求めて行うものである。
聖書では、自分の好みや目に慕わしい、という価値観で結婚相手を選ぶとしたら、それは身を滅ぼす元である。(創世記6章、士師記14:3)
それで、ルツの霊的指導者であるナオミは、ルツの「落ち着き所」へと導くため、一働きする。
『娘よ、わたしはあなたの「落ち着き所(原意:家庭、憩いの場所、休みの場所)」を求めて、あなたをしあわせにすべきではないでしょうか。』(ルツ記3:1)
女性にとって落ち着き所、憩いの場所は、男性の左腕の下(雅歌2:6)、脇腹の所(創世記2:21-22)である。
ナオミはルツに、ボアズの所に行って、「その足の所をまくって、そこに寝なさい」、と指示するが、ルツはナオミの言葉に、とまどったかもしれない。しかし、ルツがボアズと結婚する事、そして、ルツがボアズに言った言葉は、確かに御言葉に叶った事であった。(申命記25:5)
ルツは、自分の判断は一切捨て、「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう』(5節)と言って服従した。
ルツはナオミからの言いつけ通り、身を洗って、油をぬり、晴れ着をまとって、ボアズの所へ行った。
私達もキリストの所に行く時は、そのまま行くのではなく、御言葉の洗いによって身を洗い清め、聖霊の油を塗り、キリストが与えて下さった贖いの衣を身にまとって行くべきである。
そして言われた通り、ボアズの衣をまくって中に入り、そこに寝た。
『 「お前は誰だ」とボアズが言うとルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です』(3:9新共同訳)
女性が男性に積極的に求婚する事は、イスラエルではかなり例外的な事であり、ましてや、未婚女性が寝ている男性のすそをまくって、その中に入るなど、もっての外である。
しかし、彼女がした事は、「真実な事」である。私達は全て、キリストに対しては女であり、私達の家を絶やさぬ責任のある方・キリストの御衣の下に自ら飛びこんで行く事は、御心に叶った事である。
ボアズは、彼女がした事は、ナオミにした親切よりも勝っている、と褒めた。なぜならルツは「自分の選び」によって若い人の所へ走らず、御言葉に服従し、買戻しの権利のあるボアズの所に来たからである。
御言葉を大切にするボアズとしては、御言葉に叶った彼女の願いを、蹴る訳にはいかない。
私達も、まことのボアズであるキリストに、「わたしはあなたのはしためです。」「あなたの贖いの衣でわたしを覆ってください。」「あなたは罪と死から、いのちへと買い取って下さる方です。」と願い出るべきである。
私達の真の落ち着き所、憩いの場所、戻るべき家は、キリストの御衣の内、キリストの脇腹の所であり、私達の上に翻るあの方の旗じるしは、愛である。(雅歌2:4)
御言葉そのものであるキリストは、御言葉を盾にとって願い出るなら、それを拒む訳にはいかない。
ボアズは言う。「たしかにわたしは近い親戚ではありますが、わたしよりも、もっと近い親戚があります。」
ルツをめとるべき責任がボアズよりも大きい親類が、他にいたのだ。
ボアズは、彼を差し置いて結婚に急ぐ事は道理に叶わぬ事とし、その事をないがしろにしなかった。
こうして、ボアズとルツの結婚は、その人の意志次第となり、ボアズにとっても、ルツにとっても、ナオミにとっても、結婚は一旦、神の元に手放された事になる。
ナオミはルツに言った。『娘よ、この事がどうなるかわかるまで「お待ちなさい(ヤーシャブ)」。あの人は、きょう、その事を決定しなければ落ち着かないでしょう』(ルツ3:18)
ヤーシャブは「住む、とどまる、座る」という意味がある。じっと座っている事、落ち着いて静かにしている事。
主の御前に手放したものは、落ち着いて信頼していれば、あとは主が、全ての手続きをして下さるのだ。