メッセージ - 祭司が与れる食物(民数記18:8-18)
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前回は、祭司の役割と責任が主から示されていたが、責任ある務めには報いがある。
この、祭司が受け取るべき報いは「永久に受くべき分」として、今も有効である。
『主はまたアロンに言われた、「わたしはイスラエルの人々の、すべての聖なる供え物で、わたしにささげる物の一部をあなたに与える。すなわち、わたしはこれをあなたと、あなたの子たちに、その分け前として与え、永久に受くべき分とする。』(民数記18:8)
この中で、「素祭」、「罪祭」、「愆祭」は、男子だけが与かる事ができ(民数記18:9-10)、新鮮な油や、新しいぶどう酒、初物の穀物など、民が主に捧げる「初物」は、祭司の家族も、それにあずかる事ができる。(民数記18:11-13)
しかし、11,13節にある通り、それには「きよい者」だけが与かる事が出来る、とあるため、いかに祭司の一族であっても、きよくない状態であれば、それにあずかる事は許されないのだ。
その事は、レビ記にも記されている。
『あなたがたの代々の子孫のうち、だれでも、イスラエルの人々が主にささげる聖なる物に、汚れた身をもって近づく者があれば、その人はわたしの前から断たれるであろう。わたしは主である。
アロンの子孫のうち、だれでも、らい病の者、また流出ある者は清くなるまで、聖なる物を食べてはならない。また、すべて死体によって汚れた物に触れた者、精を漏らした者、または、すべて人を汚す這うものに触れた者、または、どのような汚れにせよ、人を汚れさせる人に触れた者、このようなものに触れた人は夕まで汚れるであろう。彼はその身を水にすすがないならば、聖なる物を食べてはならない。』(レビ記22:3-6)
私達キリスト者は、キリストにあって祭司とされたが、キリスト者であれば誰でも「御言葉」という聖なる食物にあずかれるか、というと、そうではない。
キリスト者であっても、聖なる食物に共にあずかれない人がいる。それは、汚れた人である。
例えば、主の恵みと祝福はいただきたいけれど、同時に、世的な罪深い欲望を手放す事もしたくないような人や、教会には一応通ってはいても、御言葉よりも世の通念のほうを優先している人などは、そうである。
彼らが、恵みの食卓で共に食べられないのは、誰かが禁止するからではない。
むしろ彼ら自身に、恵みに預かる感性が無いというか、聖なる食物を食べる「専用の口」が、無いのだ。
教会の皆が「イエス様は素晴らしいね」「御言葉はこんなに凄いのか」「恵まれるね」と楽しそうに盛り上がっているのに、その人だけは退屈そうで、何を机上の空論で盛り上がっているのだろう、などと思えて、キリストのいのちが、さっぱり理解できないのである。
だから私達は、霊的感性が開かれるよう、祈るべきである。