メッセージ - 人間の死体の汚れ(民数記19:11-22)
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『すべて人の死体に触れる者は、七日のあいだ汚れる。』(民数記19:11)
レビ記11章によると、どんなに汚れた動物や忌むべき動物の死体に触れたとしても、身を洗い清めたなら、夕方には清くなるというのに、なんと、人間の死体に限っては、触れれば七日も汚れるというのだ。
もし、衛生概念的な理由だけから考えるなら、七日という日数は、ちょっとやりすぎの感がある。
しかし、主がそう定められた以上、それが真理である。
つまりそれだけ、人間という生き物は、汚れているという事だ。
コラは、イスラエルの会衆残らず聖なるものだと主張したが、とんでもないのだ。
死体はなぜ汚れるのか。
それは、死は、人の「罪」が結んだ実の、最終形態だからである。(ヤコブ1:15)
人間の腐乱死体の臭いは、どの動物の腐乱死体よりもひどい臭いだと、聞いた事がある。
それはきっと、人が生きている時に、罪を飲み食いしたためであろう。
元々、被造物は何の罪も犯してはいなかった。しかし、人間が「罪」を犯したが故に、全被造物が呪いを受けてしまった。
人の罪の故に、土地は呪われ、いばらとあざみを生えさせるようになり(創世記3章)、全被造物は深いうめきの内に入り、神の子達のあらわれを切実に待ち望んでいる。(ローマ8:19)
イスラエルの民が、動物の死体を運んだり、人の死体を運んだりした時、汚れからのきよめの期間を過ごす度に、人間の罪汚れの深さを、思い知った事だろう。
『その人は三日目と七日目とに、この灰の水をもって身を清めなければならない。そうすれば清くなるであろう。しかし、もし三日目と七日目とに、身を清めないならば、清くならないであろう。』(民数記19:12)
三日目と七日目とに、という所が興味深い。
三日は、復活までの期間である。
イエス様が復活されたのは三日目であるし、ホセア書にも「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。」と書かれてある。(ホセア6:1-2)
また、七は完成の数字、安息の数字である。
主は、六日の間に創造のみわざを完成し、七日目に休まれ安息された故に、主は第七の日を聖とされた。(創世記2:1-3)
私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、既に罪に対して死んでおり、全く新しいキリストの復活のいのちが息吹かれた。
つまり私達は、キリストにあって、三日目の復活を経たのだ。
しかし、罪のとげが刺さっている肉体をまとっている以上、罪を犯さざるをえないこの体にうめきつつ、完全に贖われる日、すなわち、第七の日を待ち望んでおり、私達は、この望みによって救われているのだ。(ローマ8:19-24)
『しかし、汚れて身を清めない人は主の聖所を汚す者で、その人は会衆のうちから断たれなければならない。汚れを清める水がその身に注ぎかけられないゆえ、その人は汚れているからである。これは彼らの永久に守るべき定めとしなければならない。すなわち汚れを清める水をふりかけた者は衣服を洗わなければならない。また汚れを清める水に触れた者も夕まで汚れるであろう。』(民数記19:20)
その身を汚しておいて、ことさら、清めに与ろうとしない人は、神の民から断たれなければならないと、主は命じている。
その人は、主の聖所を汚す者であるから、というのがその理由だ。
キリスト者の中にも、罪の汚れに身を投じておきながら、自らを清めようともせずに、平気でいる人がいるが、それは、主の会衆を汚し、教会を汚しても平気な人である。
主はそのような人を、忌み嫌われる。
私達は、罪の汚れを受けたなら、率先して清めに与ろうとしなくてはならない。