メッセージ - 荒野で蛇を上げる(民数記21:1-9)
礼拝説教メッセージ音声:荒野で蛇を上げる(民数記21:1-9):右クリックで保存
三十八年、荒野での養いを受けた民は、着実に変わってきている。
『時にネゲブに住んでいたカナンびとアラデの王は、イスラエルがアタリムの道をとおって来ると聞いて、イスラエルを攻撃し、そのうちの数人を捕虜にした。そこでイスラエルは主に誓いを立てて言った、「もし、あなたがこの民をわたしの手にわたしてくださるならば、わたしはその町々をことごとく滅ぼしましょう。」主はイスラエルの言葉を聞きいれ、カナンびとをわたされたので、イスラエルはそのカナンびとと、その町々とをことごとく滅ぼした。それでその所の名はホルマと呼ばれた。』(民数記21:1-3)
イスラエルの民が、今までにない事をした事に、皆さんは気づかれただろうか。
今までイスラエルの民は、信仰な事は全部、モーセにおんぶにだっこ状態で、時には逆らってさえいた。
しかし今回の問題が起きた時、彼らは自主的に主に誓いを立て、信仰をもって戦いへと進み出て、そして、勝利したのだ。
実は彼らがいる場所、ホルマは、38年前にも来た事があった。
それは、あの十二人の斥候の報告で民が不信仰に陥り、荒野での三十八年の放浪が決定してしまった時である。
彼らはその時、御心に逆らい、身勝手にカナンへ攻め込んで行こうとして、逆に返り討ちに遭い、ホルマまで敗走して来たのだ。(民数記14:39-45)
三十八年前、イスラエルの民は、不信仰と不従順の故に行って、ホルマでカナン人に滅ぼされた。しかし今や、彼らは信仰によって主に誓願し、信仰によって戦いに出て、同じ場所で見事、リベンジを果たしたのだ。
しかし、彼らはその直後、またもやつぶやきに陥ってしまう。
『民はホル山から進み、紅海の道をとおって、エドムの地を回ろうとしたが、民はその道に堪えがたくなった。民は神とモーセとにむかい、つぶやいて言った、「あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って、荒野で死なせようとするのですか。ここには食物もなく、水もありません。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました」。そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。』(民数記21:4-6)
「火のへび」は「(燃えるような)激しいへび」とも訳す事ができる。
パレスチナの荒野には、このような危険な動物が他にも潜んでいるものだが、イスラエルが正しく主に導かれている限り、主は、彼らをそのような危険な動物から守っておられた。
彼らは、前章でもつぶやいているのに、主はその時は罰する事はせず、岩に命じて水を出すようモーセに指示している。
なぜ今回、主は民をは罰したのか。それは、今回彼らは主が与えて下さる恵みの食物・マナを、「粗悪な食物」呼ばわりしているからだ。
主は人に必要なものは与えてくださるが、主が与えてくださった恵みを侮る事は、許されない。
『民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。』(民数記21:7)
彼らは、ここでも、今までにない事をしている。
すなわち、自分たちが主に対し、モーセに対し、罪を犯した事を、はっきりと告白し、そして災いが取り去られるように、祈りを要請している事だ。
信じられない事かもしれないが、荒野の旅が始まった民数記9章以来、民が罪を犯し災いが与えられた時に、自分の罪を告白してモーセに執り成しを要請した記事は、残念ながら一つも見いだせない。
民数記14:40では、「自分たちが罪を犯した」と言っているものの従順は一切見られず、さっさと身勝手な事をし出したし、また、他の災いに遭った箇所でも、ただ「わめいた」とか、「何人が倒れた」とか、災いが災いのまま終わっているだけである。
今回、彼らは自分の側に過ちがあり、神とモーセに逆らった事を告白して認め、そして、祈ってくれるように要請する、という、斬新(?)な事をした。
私達も、不従順の故に災いを受け、その受けた災いを、ただそのまま、にしていないだろうか。
私達は自分の罪を、はっきりと主の前に(誰かに損害を与えたなら、その人に対しても)告白し、悔い改め、御言葉に従順する、という過程を経なければ、災いをただ受けっぱなしの状態を、続けてしまうのである。荒野の民は、三十八年も、ずっとそうだった。
今回主は、民が悔い改めた事を受け、救いの方法を示して下さった。
『そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。』(民数記21:8-9)
木の上に掛けられた、青銅の蛇を仰ぎ見ると、へびに噛まれた者も、その毒が無効化されて、生きる。
これは、イエス・キリストの十字架を表している。
イエス様はニコデモに言った。
『モーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。』(ヨハネ3:14)
荒野の民が、木に掛けられた蛇を仰ぎ見て救われたように、全人類は、十字架の木に掛けられたキリストを仰ぎ見、信じるなら、救われて命を得るのである。
蛇はサタンの象徴であり、サタンは全人類に罪という毒を導入し、その影響を受けているアダムの子孫は、死ぬしかない存在となった。
木にかけられた者は、呪われた者となる(申命記21:23、ガラテヤ3:13)が、サタンの象徴である蛇は、荒野で木にかけられ、呪われた者となり、それを仰ぎ見た荒野の民の蛇の毒は、無効化された。
同じように、全人類は、「罪そのもの」(2コリント5:21)とされて罰されたキリストを仰ぎ見、信じる事によって、罪という毒は無効化され、いのちを得るのである。
キリストの十字架を仰ぎ見て信じる以外に、救いはない。
『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。』(ヨハネ3:15-18)