メッセージ - 栄光の家系の女達 - ウリヤの妻 忠実なヘテ人ウリヤ(2サムエル記11:1-13)
栄光の家系の女達 - ウリヤの妻 忠実なヘテ人ウリヤ(2サムエル記11:1-13)
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栄光の家系の女達の第四人目は、ウリヤの妻、バテ・シェバである。
彼女は、それまでの3人とは、色々な面において異なっている。今までの3人は、何かしらの信仰の行動を起こして、栄光の家系へと加えられたが、彼女は、特に何か行動を起こしたわけでもない。
彼女はただ為されるがままである。体を洗っている裸を、ダビデ王に勝手に覗かれ、一方的に王に召しだされ、王の姦淫の相手とされ、そして一方的に王の子をみごもり、後には、一方的に夫・ウリヤは謀殺され、彼女はダビデ王の妻として迎えられ、そして、生まれて来た子は、王の罪の故に、主に打たれてしまった。
マタイの福音書には、バテ・シェバという名は記されず、「ウリヤの妻」として記されている。だから彼女を見る時、「ウリヤの妻」として見る必要があり、そしてウリヤがどのような人であったかを、まず知る必要がある。
ウリヤはヘテ人である。つまり、イスラエルが忌み嫌っているカナン人の末裔ではあるが、ウリヤという名前は「主(ヤハウェ)の光」という意味があり、また、ダビデの三十勇士の一人に数えられていたため(2サムエル記23:39)、恐らく彼も、ルツのように、イスラエルの神を慕い求めて来た異邦人の改宗者だったのだろう。
彼は、バテ・シェバという美しい妻を迎えた。彼女は、ダビデの三十勇士の一人エリアム(2サムエル23:34 名前の意味:神の民)の娘で、きっとエリアムは、ウリヤのその純粋な信仰と、誠実な人柄のゆえ、また、戦士としてのその有能さのゆえ、彼がヘテ人であるにもかかわらず、自分の娘を嫁がせたのだろう。
彼は、偉大な王ダビデに仕える戦士とされた事と、美しい神の民の娘を妻として迎えた事、そして、イスラエルの神に仕える者とされた事を喜びつつ、忠実に責務を果たす日々を送っていたのだろう。
その日もウリヤは、アモン人との戦争のために、イスラエルの全軍と共に遠征していた。
しかしダビデ王は、イスラエルの全軍が遠征に出かけていたのに、彼だけはエルサレムに留まっていた。
『ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、一人の女が体を洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。ダビデは人をつかわしてその女の事を探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありませんか」。』(2サム11:2)
律法によると、人妻と通じる者は死刑であるのに(レビ記20:10)、ダビデは、ヘテ人の妻なら何しても良いと思ったのだろうか、彼は使いをやって彼女を召し入れ、彼女と寝た。
しかし、タマルの時と同じように、この、たった一度の逢瀬により、彼女はみごもる事になる。
ダビデ王は、彼女がみごもった事を聞いて、自分の罪を隠そうと、一計を案じる。
彼は、ウリヤを自分の所に送るように命じ、彼から適当に戦いの状況をたずねてから、家に帰るよう命じた。
ウリヤからすれば、あの尊敬する神の民・イスラエルの王・ダビデのお墨付きで、しかも贈り物つきである。
普通なら、喜んで美しい妻の待っている家に帰り、久しぶりに妻と一緒の時を楽しむ所だが、そうではない。
「神の箱も、イスラエルも、ユダも、小屋の中に住み、わたしの主人ヨアブと、わが主君の家来たちが野の表に陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。」(11節)
彼はなんと忠実な人だろうか!主御自身も、イスラエルも、主人ヨアブも、戦いに出て野営している、それに引き換え自分だけ家に帰り、妻といい思いをする事など、できない、と言うのである。
それに引き換え、ダビデ王は一体、何をしたのだろう。主も、部下も、戦いに出て野営しているというのに、彼だけ王宮に留まり、しかも夕方に起きだして屋上を散歩し、人妻を見て欲情し、姦淫する。
ダビデ王は、ヘテ人のこの忠実な一兵士の言葉を聞いて、悔い改めるべきだったが、そうはせず、かえってますます罪を隠そうとし、ついには、この忠実なしもべを殺そうとたくらむまでになってしまう。
ダビデ王と言えば、誰もが認める偉大な王である。ちょっとくらい、人妻と寝ても良いのでは、と思われる。かもしれないが、主の光に照らされる時、むしろ王だからこそ、そのような事は、許されないのだ。
福音書の系図に、なぜ「ウリヤの妻」として記されたか、それは、忠実なウリヤというヘテ人がいた事が記録され、多くの人に知られるためではないだろうか。主は、ウリヤのように、一外国人であっても、主と主君に忠実な人が陰謀によって殺され、人知れず暗闇の中に葬り去られる事など、決してゆるさないのだ。
その主のご性質は、弱き人にとっては慰めであり、強き人にとっては、戒めとして覚えておくべきである。