メッセージ - ひと度示された御心に(民数記22:9-20)
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神様は、御言葉によって、御心が何であるかを必ず人に示される。
人にとって真の幸いとは、一言、御言葉に服従する事であり、そしてまた、世の全ての不具合や不幸の原因は、一言、御言葉から逸れているからに、他ならない。
「罪」という言葉のギリシア語「ハマルティア」は、元々「的外れ」という意味であり、罪とはすなわち、御言葉という真理から外れているという事である。
人が幸いになるか、それとも滅びに至るかの法則は、シンプルである。
つまり、御言葉に従ったか、それとも反したか。
この法則は、エデンの園以来、一貫して変わっていない。
『神はバラムに言われた、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである」。』(民数記22:12)
ここの場合、バラムが服従すべき御言葉とは「彼らと一緒に行くな」であり、それを守るなら、バラムは幸いを得、破るなら、呪いを受ける。
実に単純明快ではあるが、人は何かと、自分の好む事をしたくてうずうずしており、その「うずうず」を抑えきれない人ほど、災いと恥が絶えない。
バラムはひと度、御心に従い、モアブの使者たちとは一緒に「行かなかった」。
しかし、モアブの王は、今度はさらに身分の高い人達を遣わし、大いに優遇する事を約束して彼を誘ってきた。
『しかし、バラムはバラクの家来たちに答えた、「たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を越えては何もすることができません。』(民数記22:18)
ここを読む限り、バラムはとても立派な事を告白している。
そこで終わっていたならいいものを、しかし彼は、次の節の言葉を混ぜ込んでしまったが故に、滅びへと一歩、足を踏み入れてしまった。
『それで、どうぞ、あなたがたも今夜ここにとどまって、主がこの上、わたしになんと仰せられるかを確かめさせてください」。』(民数記22:19)
主の御心は、元々、「行くな」だった。
しかし彼は、自分の中で芽生えた「行きたい」という思いの故に、今回、神はもしかしたら御心を変えられて、「行け」という自分の好む言葉を出してくれるかもしれない、と思ったのだ。
『夜になり、神はバラムに臨んで言われた、「この人々はあなたを招きにきたのだから、立ってこの人々と一緒に行きなさい。ただしわたしが告げることだけを行わなければならない」。』(民数記22:20)
主は彼に「行きなさい」と言われた。
しかしそれは、主がモーセに「約束の地へ行け」と言われたような「積極的命令」とは、程遠い。
主は、御心に逆らう自由も人に与えられる。
そして人は、その御心に反した行動をした結果の報いを、きっちり刈り取る事になってしまうのだ。
私が高校時代の、ある試験前の土曜日の事である。
私は、いつも土曜に遊ぶ友人とは遊ばず、勉強しよう、と思っていたのに、友達は「いつもどおり遊ぼう」と誘ってきた。
私はその時、「神様、これからサイコロを振ります。偶数なら行かない、奇数なら行く、と、御心を示して下さい」と祈って、サイコロを振った。
出た目は、偶数だった。
それで友人に、やっぱり行けない旨を伝えたが、友達はさらに誘惑し、私に遊ぼうと誘って来た。
それで私は、もう一度、サイコロを振って見た。
出た目は、奇数だった。
それで私は、遊びに行った。
結局、思っていた通りの勉強が出来なかったため、テストの結果は当然、良くなかった。
さて、この時の私は、サイコロに奇数を出させた神様を、責める権利はあるだろうか?
当然、無いはずである。バラムのように、御心を再トライした私が悪かったのだ。
しかし、なんと多くの人が「あの時サイコロを奇数に出させた神が悪い」などと言って、自分の責任を転嫁している事だろうか。
もし私達に「行くな」という御心が示されたのなら、
行かない。「行け」という御心が示されたのなら、行く。
そこに「でも」や「だって」を混ぜこんだり、御心を再トライしたりすると、シンプルだった物事はややこしくなり、失敗してしまうものなのだ。