メッセージ - しゃべり出すろば(民数記22:21-30)
礼拝説教メッセージ音声:しゃべり出すろば(民数記22:21-30):右クリックで保存
『明くる朝起きてバラムは、ろばにくらをおき、モアブのつかさたちと一緒に行った。しかるに神は彼が行ったために怒りを発せられ、主の使は彼を妨げようとして、道に立ちふさがっていた。バラムは、ろばに乗り、そのしもべふたりも彼と共にいたが、ろばは主の使が、手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見、道をそれて畑にはいったので、バラムは、ろばを打って道に返そうとした。』(民数記22:21-23)
バラムは、主の使いが抜き身の剣を持って立ちふさがっているのが、見えなかった。
彼は、「呪うものは呪われ、祝福する者は祝福される」と言われている程の、著名で力ある預言者だと言うのに、ろばにさえ見えていた主の使いと抜き身の剣が、見えていなかった。
いかに有力で著名な預言者と言えども、欲に目が眩み、富と名声を手に入れようと奔走しだすなら、動物のろばが見えるものさえも、見えなくなってしまうのだ。
主の剣は御言葉であり(エペソ6:17、ヘブル4:12)、私達は常日頃、この御言葉に目を留め続ける必要がある。
そうでないと、私達が御心に反して、主が剣を立てて立ちふさがっている時、何も見えなくなってしまい、そのまま滅びへと邁進してしまうのだ。
バラムが行こうとした道は、不義の報酬を愛する道であり、主の御言葉を取り次ぐ「預言者」にとって、不義の富を追い求めて御言葉を脇に押しやる事は、「気違い沙汰」なのである。(2ペテロ2:15)
主は、どのようにして、彼の気違い沙汰を止めたか。
それは、物言わぬろばが口を開き、人間の言葉を語る事を通して、である。
『主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った、「わたしがあなたに何をしたというのですか。あなたは三度もわたしを打ったのです」。バラムは、ろばに言った、「お前がわたしを侮ったからだ。わたしの手につるぎがあれば、いま、お前を殺してしまうのだが」。ろばはまたバラムに言った、「わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか」。バラムは言った、「いや、しなかった」。』(民数記22:28-30)
有り得ない事に、ろばは人間の言葉で物を言った。
しかしバラムは、何の不思議も無く、普通にろばと会話した。
それ程彼は欲に目が眩んでいて、富と栄誉を得るために奔走するのに必死だったのだろう。
彼は、自分の思い描いた通りに動かないろばに大きな怒りを燃やし、ろばから「わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか」と問われるまで、主の道に反していた事も、主の使いが抜き身の剣を持って立ちふさがっていた事も、気づかなかったのだ。
主は、エルサレムに入られる時、ろばを召し入れるために言われた。
『向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう。』(マタイ21:2-3)
イエス様は、ろばがお入り用になった時、これこれのろばが、これこれの場所にいるから、縄をほどいて、連れて来なさい、と言われた。
主が私達を召しだされた時も、同じだったのではないだろうか。
ろばが主のもとに連れて行かれる時、誰かが何かを言っても、「主がお入り用なのです」と言わせて、誰も、主のもとに行かせるのに、邪魔しないようにして下さる。
私達は、イエス様をお乗せする「ろば」のようなものであるが、時に私達も、普段仕えている預言者が、欲に目が眩んで気違い沙汰に陥る事があるかもしれない。
彼を乗せて、主の剣が立っている所へと、鞭打たれながらも邁進して行かされてしまうような事があるかもしれない。
そのような時、主の剣が立っているのが見えたのなら、怒られようとも、呪われようとも、立ち止まるべきである。
その預言者の気違い沙汰を防いで、いのちを救うために。
いかに相手が、それまで支えてきた著名な預言者であろうとも、主は、ろばを弁護して下さったように、私達のほうを弁護して下さるのだ。
バラムのような気違い預言者を載せるろばではなく、イエス様をお乗せして運ぶろばとして、大いに用いられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!