メッセージ - 御言葉の剣の前に(民数記22:31-41)
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『このとき主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使が手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。』(民数記22:31)
バラムは、目が塞がれていた。富と名声を得ようという貪欲さによって。
人は、内から湧いてくる肉的な要因によって、真理が見えなくなってしまう事がある。
ハガルの場合は、水が切れた事の心配と絶望感で目が塞がれ、近くに井戸があるのが見えなかった。(創世記21章)
エマオの途上の二人の弟子も、イエス様が十字架につけられた事へのショックと、これからの心配とのゆえに目が塞がれて、目の前にイエス様が現れたのに、しかも、イエス様がずっとお語りになっていたのに、イエス様だと気づかなかった。
そしてバラムの場合、欲に目が眩んでいたがために、ろばに見えていた御使いが、見えなかった。
私達は、真理を見えなくさせてしまう、肉的な思いや諸々の心配事を、主の御前に取り扱っていただく必要がある。
『主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。』(民数記22:32)
ここは欽定訳聖書では「because thy way is perverse before me(あなたの道は私から踏み外れていたから)」とあり、私達も、主の道から踏み外れてしまうと、今まで味方だった主は、今度は敵対して立つ事になってしまう。
『ろばはわたしを見て三度も身を巡らしてわたしを避けた。もし、ろばが身を巡らしてわたしを避けなかったなら、わたしはきっと今あなたを殺して、ろばを生かしておいたであろう」。』(民数記22:33)
バラムは剣でろばを殺そうとおもったが、実はバラムは、このろばのおかげで剣で殺されずに済んでいたのだ。
主の剣が立った時は、どうするのが良いか。
ヨシュアが模範的な対応をしている。
『ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。』(民数記5:13-14)
ヨシュアが目の前にそびえ立っているこの堅固な町を、どう攻略しようかと頭がいっぱいとなっていた時、彼は知らない間に、主の軍勢の将さえも「自分の味方につくかか、それとも敵につくか」という、自分にとって損か得の秤にかけてしまっていた。
しかし主は、そのような自分主体の質問には「いや」と応え、そしてご自分の聖なる立場をお示しになる。
ヨシュアにそれが示された時、彼は実に正しい対応を取った。
『ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。』(民数記5:14)
彼は地にひれ伏して拝し、「わが主は」「この僕に」と言って、主従関係を明らかにし、「何を告げようとされるのですか」と言って、主の言葉を待った。
すると主の軍の将は、「あなたの足から履物を脱げ。」と命じられた。
私達が世の中を渡り歩く時、様々なほこりや汚れを付けて来る。
世の人の、良からぬ思いや、世的な価値観など、そうした罪や汚れを付着させてしまう。
私達が主の御前に出る時は、そうした世的な汚れやしがらみという履物を脱ぎ捨てて、出る必要がある。
みことばの剣は、死と命の間を切り分け、肉と霊、たましいと霊を切り分ける。
主の軍の将から授けられた軍事作戦は、およそ世の将校が考え出すものとはかけ離れ、軍事作戦と言うには、あまりにナンセンスな内容だった。(ヨシュア6:1-5)
しかし、だからこそ御言葉に従順するかどうかが試され、そして従順する時、私達はあらゆる問題に対する解決が与えられるのである。
ヨシュアは、御言葉の通り忠実に実行し、そうして大勝利を収めた。
主の剣は御言葉であり、敵を切り裂くか、それとも自分を切り裂くかの「諸刃の剣」である。
「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」(ヘブル4:12)
この諸刃の剣を正しく用いる方法は、御言葉に従順し服従する事以外に、無い。
聞き従い服従する人にとっては、御言葉は勝利の剣であるが、主を軽んじ自分の肉欲によって歩む者には、自らを傷つける災いの剣となってしまうのだ。