メッセージ - 託宣を求めたがる人の罠(民数記23:13-30)
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『バラクは彼に言った、「わたしと一緒にほかのところへ行って、そこから彼らをごらんください。あなたはただ彼らの一端を見るだけで、全体を見ることはできないでしょうが、そこからわたしのために彼らをのろってください」。』(民数記23:13)
バラクは、預言者バラムの託宣が、期待外れだったので、それなら、今度は場所を変えてみたら、神はもしかして心を変えて、自分の思い通りの事を言ってくれるかもしれない、と思い、バラムを別の所へ連れて行った。
『そこでバラムはまたこの託宣を述べた。「バラクよ、立って聞け、/チッポルの子よ、わたしに耳を傾けよ。神は人のように偽ることはなく、/また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、/語ったことで、しとげないことがあろうか。』(民数記23:18)
前回の一回目の託宣の時もそうだったが、バラムが言っている事は一見、預言のように見えるが、実はそうではなく「託宣(ヘブル語「マーシャール」:格言、決まり文句、寓話)」である。
彼の言葉が、それっぽく聞こえるのは、彼がヘブル詩形式で語っているからだ。
ヘブル詩には、同じ内容の事を平行して繰り返す特徴がある。例えば、「バラクよ、立って聞け、/チッポルの子よ、わたしに耳を傾けよ。」は、同じ内容を平行して繰り返しているし、「言ったことで、行わないことがあろうか、/語ったことで、しとげないことがあろうか。」も、同様である。
聖書はこのような形式の言葉が多いため、バラムの言葉が、それっぽく聞こえるのである。
『祝福せよとの命をわたしはうけた、/すでに神が祝福されたものを、/わたしは変えることができない。』(民数記23:20)
このバラムの言葉を見ると、彼は「預言」を語っているのではなく、やはり「彼の格言」を語っているのだということが分かる。
なぜなら彼の言葉の源は、主ではなく、「わたし」(バラム)だからである。
預言の源は神であり、人はその届け人に過ぎない。
それ故、預言には神の権威に裏付けされた力があるが、それに対し、託宣の言葉の源は、その人であり、その人の権威程度の力しか無い。
バラムが「バラクよ、立って聞け、/チッポルの子よ、わたしに耳を傾けよ。」と語りかけている以上、この格言はバラクに対して語られたものであり、バラクは少なくとも、この格言に従うべきだった。
すなわち、神はイスラエルに祝福の約束をされており、それは決して変更する事なく必ず成し遂げ、そのイスラエルに手を出すなら、ただではおかない事を、バラクは悟り、神を恐れ敬うべきだった。
それなのにバラクは、この格言を聞いても、何も得る所が無かった。それは次の言葉で分かる。
『バラクはバラムに言った、「あなたは彼らをのろうことも祝福することも、やめてください」。』(民数記23:25)
この言葉には、悔い改めも、神への恐れ敬いも、一切無く、ただ、自分の思い通りに行かなかった事への苛立ちのみがある。
これが、託宣を求める者が陥る罠である。
いかに素晴らしい言葉を聞いても、気に入ったか、気に入っていないかの印象だけが残っていて、内容を全く得ていないのだ。
キリスト者の中にも、霊的指導者に、託宣や決まり文句、寓話の類を求めて来るような人がおり、そのような人は、「それっぽい」話を聞いたなら、それで良い気になって、しかし蓋を開けてみると、気に入ったか気に入っていないかの印象しかなく、内容がすっかり抜けてしまっていたりする。
しかし、忘れてはならない。
人が伝えられる最も良き言葉は、聖書の御言葉であり、御言葉を信じて実行する人のみが、主から祝福を得る事を。
そして、聖書の御言葉が示されたからには、たとい、ろばが語っていたとしても、それに聞き従わなくてはならない。
『御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。』(2テモテ4:2-4)