メッセージ - ひと度主の素晴らしさを味わっておきながら(民数記24:14-25)
ひと度主の素晴らしさを味わっておきながら(民数記24:14-25)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 民数記
- 執筆 :
- pastor 2013-10-31 22:15
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バラムは続いて、遠い将来の事を予言する。
『ベオルの子バラムの言葉、/目を閉じた人の言葉。神の言葉を聞く者、/いと高き者の知識をもつ者、/全能者の幻を見、/倒れ伏して、目の開かれた者の言葉。わたしは彼を見る、しかし今ではない。わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。ヤコブから一つの星が出、/イスラエルから一本のつえが起り、/モアブのこめかみと、/セツのすべての子らの脳天を撃つであろう。』(民数記24:15-17)
バラムが予言した、イスラエルから出る一本のつえ。それは、ユダから出る支配者の杖(創世記49:9-10)、すなわち、ダビデ王の事であり、イエス・キリストの事でもある。
バラムは神の霊感によって、イスラエルから出る全世界を治める王、イエス・キリストを見たのである。
『敵のエドムは領地となり、/セイルもまた領地となるであろう。そしてイスラエルは勝利を得るであろう。権を執る者がヤコブから出、/生き残った者を町から断ち滅ぼすであろう」。』(民数記24:18-19)
確かにエドムは、イスラエルが国内を通行する事を武力でもって邪魔したが、この時点、イスラエルはエドムに手出しする事が禁じられている。
しかしエドムはその後も、イスラエルに悪を図る事をずっと止めず、結局、主の怒りにあって滅びてしまう。(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1652 )
『バラムはまたアマレクを望み見て、この託宣を述べた。「アマレクは諸国民のうちの最初のもの、/しかし、ついに滅び去るであろう」。』(民数記24:20)
当時、アマレクは国々の中で栄えていたが、後に、イスラエルによって打ち負かされてしまう。その時、バラムもアマレクの中にいて、一緒に剣で殺されてしまうのだが、その事については後述する。
『彼はまたこの託宣を述べた。「ああ、神が定められた以上、/だれが生き延びることができよう。キッテムの海岸から舟がきて、/アシュルを攻めなやまし、/エベルを攻めなやますであろう。そして彼もまたついに滅び去るであろう」。』(民数記24:23-24)
キティムはキプロス島、つまり、地中海沿岸地域である。
そこから船団が来て、アシュル(アッシリア)と、エベル(ヘブル:イスラエル)を悩ます・・・この事は、ローマ帝国がアッシリアやイスラエルを席巻した史実と一致する。
『こうしてバラムは立ち上がって、自分のところへ帰っていった。バラクもまた立ち去った。』(民数記24:25)
バラムは御心の通りに、そして、主から戒められていた通りに、イスラエルを呪わず、祝福した。
この時点、バラムには何ら問題は見いだせず、むしろ、立派に役割を果たしたように見える。
では、彼はなぜ新約では「気違い預言者」として記されたのか。
それは、イスラエルの陣営の素晴らしさを見、神の霊に促されて、イスラエルの神の力強さ、麗しさを語り、主の偉大な御力を経験しておきながら、それでもなお不義な報酬を愛し、堕落へと走ったからだ。
次回、民数記25章は、イスラエルの民が異邦の女と不品行の罪を犯したために主の罰を受ける事が記されているのだが、イスラエルをつまづかせ、不品行へと導いたのが、この、バラムである。
『あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。』(黙示録2:14)
バラムは、バラクから報酬を受け取らずにそのまま去ったのではなかった。
イスラエルが主と良好な関係を結んでいる限りは、呪えないから、その代替として、イスラエルを不品行へと導き、神の怒りを引き起こさせて、イスラエルに災いをもたらすように仕向けて、そうして、バラクから報酬を受け取ったのだ。
バラムは神に言い訳しただろうか。
「私は確かに、あなたの言いつけどおり、イスラエルは呪いませんでした。でも、イスラエルを堕落させてはならないとは、お言いつけにはなりませんでしたよね?」と。
主には、そのような詭弁は、通用しない。
彼はそのすぐ後、ミデヤン人の間にいる所を、剣で殺された。(民数記31:6-9)
モーセが生きている間に、であるから、彼が得た不正な報酬を楽しんだ期間は、一年も無かったようである。
これが、ひと度主の素晴らしさを味わっておきながら、なお不義の報酬を愛し、堕落してしまった者の末路である。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)