メッセージ - 永遠のマンションに入居するための査定(民数記26:1-56)
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民数記はその名前の通り、民の数を数える場面から始まっており、その第一回目の人口調査は、戦争に出る事の出来る20歳以上の男子を登録し、荒野を進み行く上で、秩序正しく宿営したり、行進したりするための、事前調査の意味合いも濃かった。
そして、荒野での日々も40年を経、あと少しで約束の地に入ろうとしているこの時、主は、第二回目の人口調査を命じている。
『疫病の後、主はモーセと祭司アロンの子エレアザルとに言われた、「イスラエルの人々の全会衆の総数をその父祖の家にしたがって調べ、イスラエルにおいて、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者を数えなさい」。』(民数記26:1-2)
主がこの時、再び民の数を数えるよう命じられた事の目的が、52節以降に記されている。
『これらの人々に、その名の数にしたがって地を分け与え、嗣業とさせなさい。大きい部族には多くの嗣業を与え、小さい部族には少しの嗣業を与えなさい。すなわち数えられた数にしたがって、おのおのの部族にその嗣業を与えなければならない。ただし地は、くじをもって分け、その父祖の部族の名にしたがって、それを継がなければならない。すなわち、くじをもってその嗣業を大きいものと、小さいものとに分けなければならない。』(民数記26:53-56)
つまり、これから勝ち取って行くべきカナンの広大な土地を、各部族に割り当てる際、数の多い部族は多く、数の少ない部族は少なく割り当てるための、事前調査と言える。
この時に相続地として定められた境界線は、後代もずっと変えてはならない事を、主は定められた。(申命記19:14、27:17、箴言22:28、23:10)
つまり、イスラエル12部族がそれぞれ受け継ぐ土地の広さは、この時点の人口の数によって、永遠に決定づけらる事になる。
同じように、今、私達が生きている「人生」という荒野の歩みは、天における永遠の相続を決定づけるための、査定期間のようなものである。
クリスチャンの中に、ひと度イエス様を信じたなら、全ては赦されるのだから、何やっても天国行きだ、だから何をしても良い、と、思い違いをしている人がいるが、聖書には次の御言葉もある事を、忘れてはならない。
『わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。』(2コリント5:10)
イエス様を信じる人は、確かに天国に行く。
しかし、天において頂ける相続には、個人差があり、それは地上で為した行いに拠りけりだという事は、確かである。
言ってみれば、天にはキリスト者が永遠に住まうマンションが相続地として用意されており、どのくらい良いグレードのマンションに住まう事が出来るのかは、この地上での人生という査定期間にかかっているのである。
荒野での40年で、増えた部族もあれば、減った部族もある。
ユダ族は、最初の調査と後の調査の両方において、トップの数字を誇り、ユダ族が主に喜ばれる生活をして来た氏族である事が分かる。
彼らは良い土地を相続し、後には王達が生まれ出て、さらには、全人類の救い主、イエス・キリストの家系を生み出す栄誉にあずかった。
増加率が最も多かった民族は、マナセ族で、32,200人から52,700人に増えており、増加率はプラス64%である。
ちなみに、同じヨセフから生まれたマナセの弟の部族・エフライム族は、荒野の生活のはじめよりも減少している。
エフライムのほうがヤコブから祝福を多く受けたというのに(創世記48章)、減少しているのは、エフライムが祝福に値しない事を続けてきたからだろう。(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1144 )
そして、減少率が最も顕著だったのが、シメオン族である。
59,300人だったのが、22,200人になっており、マイナス63%である。
これは、前回の箇所の、あのコズビ事件の故であろう。
あの事件は、査定終了の直前に大きな不正事件を起こしてしまって、査定点数が一気に下がってしまったようなもので、私達の人生の歩みでも、それまで順調に主に喜ばれる信仰生活を送っていたのに、人生の終わりになって傲慢になり、それまで積み上げて来た良き評価が、一気に崩れてしまう、というような事がありうるのである。
親が子を祝福したり、牧師が信徒を祝福したりする事は、確かに大事ではある。しかし結局のところ、その人が本当に祝福されるかどうかは、その人本人がどのような信仰の歩みをし、どのような行いを積み重ねて行くかに、かかっているのだ。
そしてまた、約束の地に入れず、途中で脱落した人も多数いる事も忘れてはならない。
実に多くの人たちが、荒野に屍となって、置いてけぼりにされた。
これらの事は全て、私達に対する教訓である。
『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。』(1コリント10:1-12)