メッセージ - イエスの名を否んでも(マルコ14:66-72)
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人はその場の空気に支配され、口先では心と違った事を言う傾向がある。
イエス様が尋問されていた時、ペテロが中庭に行ったのはイエス様を思う気持ちからだったが、女中に指摘された時、彼は単に場の空気に順応したかっただけで、「言葉ではイエス様を否んでしまったが心はイエス様に使えているのだ」とさえ思わなかった程に無意識、反射的だったかもしれない。
しかし彼は事実「イエスを知らない」と3度言うのであり、鶏は鳴くのである。
ペテロはその少し前、力を込めて「死んでもイエス様を知らないとは言わない」と言っていたが、その夜が明ける前に、力を込めて、しかも誓って「イエス様を知らない」と言ってしまった。
主に従いつくせるかどうかは、力のある無しは全く関係ない。
主のことばを守り、主の名を知らないと言わない教会こそ、大艱難の時にに守られる教会である(黙示録3:7-10)が、それは人の力では出来ない。
最後までイエス様を愛し尽す力は人には無いが、主は私達の信仰が無くならないように執り成しておられる。
ペテロとイスカリオテ・ユダの違いは、イエス様の名の元に集まる事を止めなかったか、止めたかである。
死してお詫び申し上げる、など、主の前には美学でも何でもなく、究極の自慰行為である。
たとえ主の名を否んでも、生き恥を晒しても、主の集まりから決して離れない事を、主は望んでおられるのだ。
ペテロはこの後、再びイエスの名のために大勢の前で尋問される時が来るが、その時彼は大胆にイエスを告白し、それを聞いた権力者達は何も答える事ができなかった。(使徒4:5-14)
この力の源は聖霊に満たされていたからであり(使徒4:8)、聖霊に満たされるコツは、主の集まりから離れない事。
無学な普通の人である事は何の問題も無く、大切なのは、イエスと一緒にいる者である、という事だ。(使徒4:13)
困難な時代において守られる者とは、イエスの名を否まない者であるが、イエスの名を否まない事は人間の力では出来ない。
しかし聖霊に満たされるなら、このお方を否まないどころか、大胆にイエスを伝える事が出来る。
聖霊に満たされる者とは、イエス様の名の元から離れない者である。
イエスニム イルムロ チュッポク パドゥル チヨダ!
(イエスの名によって祝福されよ!)