メッセージ - 祭りの実体であるキリスト(民数記28:11-31)
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11-15節は、新月ごとに行われる「新月祭」において、主に捧げるべきものが定められている。
新月祭で、全焼のいけにえとして捧げられる動物は、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の傷の無い小羊七頭である。
それに添え、雄牛一頭につき、小麦粉6.9リットルに油を混ぜたものを、雄羊一頭につき、小麦粉4.6リットルに油を混ぜたものを、小羊一頭につき、小麦粉2.3リットルに油を混ぜたものを素祭として一緒に捧げるように命じられている。
また、注ぎの捧げ物として、ぶどう酒を、雄牛一頭にき1.9リットル、雄羊一頭につき1.3リットル、小羊一頭につき0.95リットルを、ささげなければならない。
その他に、罪祭として、雄やぎ一頭を主にささげなければならない。
ここで添えて捧げられる小麦粉も、ぶどう酒も、結構な分量である。
荒野を旅する民には、畑は無いので、当時のそれらは、貴重なものであるが、主は、乳と蜜の流れる約束の地において、それらを十分に与えて余らせるお方である。
主は、喜んで捧げる人には、さらに押入れ、揺すり入れして多くを与えて下さるお方だ。
16-25節は「過越祭」と、それに続く七日間の「種を入れないパンの祭り」にて捧げるべきものが定められている。
既に習った通り、過越祭は、正月14日の夕に子羊をほふり、その血を家の鴨居と門柱に塗り、夜、それを食して、主がイスラエルの民をエジプトから贖い出して下さった事を記念する祭りであるが、この祭りはまさしく、キリストを表し、サタンから私達を贖い出すために、ほふられた小羊となって血を流し、その血によって私達は滅びを免れた事を予表している。
この祭りの間は、毎日、新月祭と同じいけにえと添え物が捧げられる事になる。
26-31節は「初穂の日」すなわち「七週の祭り」にて捧げるべきものが、定められている。
初穂の日は、種を入れないパンの祭りの安息日から50日目の日であり、それはすなわちペンテコステの日、イエスの弟子たちが聖霊に満たされ、主に捧げられる者の初穂として公に示された日である。
この日も、新月祭や過越祭の時と同じいけにえと添え物が捧げられる。
これら祭りで捧げられる動物も、添えられるものも、そして、これらの祭り自体も、全てはイエス・キリストのご性質を表している。
旧約の全ての事は、イエス・キリストをあらわしており、旧約の実体であるキリストがあらわれた今、私達にはそのような動物を捧げる礼拝は、もはや無用である。
パウロは、日ごと月ごと年ごとの例祭を守ろうとしているガラテヤの人たちに警告している。(ガラテヤ4:8-11)
キリストを知り、キリストに救われておきながら、それでなお例祭などの「律法」によって義に至ろうとする行為は、ナンセンスだ、と。
『それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。』(ガラテヤ3:19)
律法とは、人には「罪」という違反がある事を示すためのものだと、書いてある。
だから、私達にはまことの犠牲が必要であり、まことの贖いが必要である事を渇望するようになり、そうして人は、救い主へと導かれるのである。
『このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。』(ガラテヤ3:24-26)
律法の実体であり、まことのいけにえとして、ただ一度完全な贖いをして下さったキリストが現れた以上、もはや、私達は律法という養育係の下にいる必要は無く、日ごと、月ごとのいけにえは不要となった。
『あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。』(コロサイ2:16-17)
だから私達は、感謝して、日ごと、月ごと、年ごとに、キリストを覚え、キリストに感謝しつつ、世にある日々を送って行くのである。