メッセージ - 権利を主張して良い時といけない時(民数記32:1-15)
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いよいよヨルダン川を超えて全軍ともにカナンの地に攻め入ろうとしているこの時、ルベン族とガド族が進み出て、モーセとエルアザルや会衆の長たちを前に、ある申し出をする。
『「主がイスラエルの会衆の前に撃ち滅ぼされた国は、家畜を飼うのに適した地ですが、しもべらは家畜を持っています」。彼らはまた言った、「それでもし、あなたの恵みを得られますなら、どうぞこの地をしもべらの領地にして、われわれにヨルダンを渡らせないでください」。』(民数記32:1-4)
もしこれから、ある部族が領地を勝ち取るたびに、その部族は戦いから離れてしまうとしたら、まだ戦いの残っている部族の負担はどんどん大きくなってしまう。
この申し出は、モーセを怒らせた。
『あなたがたは兄弟が戦いに行くのに、ここにすわっていようというのか。どうしてあなたがたはイスラエルの人々の心をくじいて、主が彼らに与えられる地に渡ることができないようにするのか。あなたがたの先祖も、わたしがカデシ・バルネアから、その地を見るためにつかわした時に、同じようなことをした。すなわち彼らはエシコルの谷に行って、その地を見たとき、イスラエルの人々の心をくじいて、主が与えられる地に行くことができないようにした。』(民数記32:6-10)
確かに彼らは、この地を受け継ぐ権利はある。
神がアブラハムの子孫に与えると約束された地は、「エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」という広大な地で、彼らが求めた地はそれに含まれているのだから。
しかし問題なのは、「イスラエルの意気をくじく事」点にある。(7,9節)
かつてヨシュアとカレブと共に行った10人の斥候たちは、イスラエル全体の意気をくじき、そうして、イスラエル全体を荒野での40年へと導いてしまった。
それでその10人は皆、主に打たれて死んだ。
教会で兄弟姉妹が誰かのために心を合わせて祈り、信仰の戦いをしている時に、ある人は祈りに参加せず、飲み食いする権利ばかり主張して、座してのうのうとしているとしたら、その存在そのものが、集会全体の意気をくじき、聖なる集い全体のつまづきとなってしまう。
私達はそのような者にはなるべきではないし、そのような人にはモーセのように戒めるべきである。
主も、信じる最も小さい人のひとりをつまずかせるような者は、大きな石臼を首にかけられ、海の深みに沈められる方がましだ、と言っているからだ。(マタイ18:6-7)
私達は確かにキリストにあって自由が与えられているし、聖徒として色々な権利が与えられている。
しかし、その権利を主張したり行使したりする時期を間違えると、他の聖徒をつまづかせて罪を増し加えてしまう事もあるのだ。
パウロは、自分に与えられている自由や権利、あるいは知識が、弱い人のつまづきとなるなら、その権利は行使しないと言っている。
『あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。
だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。』(1コリント8:9-13)
自分に与えられている権利や自由を、兄弟姉妹のために、あえて下ろすべき時もある。
思いやりもなく権利を押し通す事によって、兄弟姉妹をつまづかせる事の無いよう、私達は気をつけなくてはならない。
教会はキリストのからだであり、おのおのが各器官である。
それ故、教会とは自分の権利を押し通す所ではなく、キリストの権利を通す所であり、キリストのからだ全体の益のために物事をなすべき所である。
キリストのからだの一部分として、からだ全体が戦うべき時には共に戦い、分かち合うべき時には、共に分かち合う皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!