メッセージ - 相続地を絶やさぬために(民数記36:1-13)
礼拝説教メッセージ音声:相続地を絶やさぬために(民数記36:1-13):右クリックで保存
いよいよ民数記最後の章である。
出エジプト記とレビ記が、主から与えられた学科であるとするなら、民数記は、実技試験の記録であった。
主の山・ホレブで律法が授けられ、礼拝から日常生活に至るまでの多岐にわたる学びを受け、いざ、これから主が約束された地に向かって編隊を組み、意気揚々と出発し始めたのが、民数記のはじめであった。
しかしイスラエルの民は、その実技試験をかなりまずく行い、面接官である主の御前に度重なる無礼なふるまいを続けた。
それで、その世代の者たちは約束の地に入る資格無しとされ、子の世代は、荒野での余計な38年の放浪生活を通らされてしまった。
信仰生活において、荒野の放浪に陥ってしまう原因は、「不信仰」である。
遡る事38年前、カデシュ・バルネアにおいて、主が与えると示された地に、いざ入ろうとしている時に、民は「その地には行けない」「そこの住民たちは我々を食いつくす民だ」「エジプトへ帰ろう」と言い出し、モーセ達に石を投げつけようとさえした。
主は、民の不信仰や御怒りを引き起こす度々の振る舞いを、幾度も赦し、憐れみを注いできたのに、民はことごとくモーセの執り成しや主の憐れみを踏みにじり、つぶやきを止めなかったため、ついにその世代は、荒野で滅ぶようにされたのである。
不信仰な世代が死に絶え、その子にあたる世代は、失敗を繰り返しながらも、着実に主に従う事を学び、良き性質へと変えられてきた。
(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1654&cid=35 )
このような所を経て、これからいよいよカナンの地に入ろうとしているこの時期、民数記の最後の記述は、ゼロペハデの娘たちに関するマナセ族の訴えと、それに対して主が応えている場面で終わっている。
『イスラエルの人々に、その嗣業の地をくじによって与えることを主はあなたに命じられ、あなたもまた、われわれの兄弟ゼロペハデの嗣業を、その娘たちに与えるよう、主によって命じられました。その娘たちがもし、イスラエルの人々のうちの他の部族のむすこたちにとつぐならば、彼女たちの嗣業は、われわれの父祖の嗣業のうちから取り除かれて、そのとつぐ部族の嗣業に加えられるでしょう。こうしてそれはわれわれの嗣業の分から取り除かれるでしょう。
そしてイスラエルの人々のヨベルの年がきた時、彼女たちの嗣業は、そのとついだ部族の嗣業に加えられるでしょう。こうして彼女たちの嗣業は、われわれの父祖の部族の嗣業のうちから取り除かれるでしょう」。』(民数記36:2-4)
すなわち、ゼロペハデの娘達のように、父親が娘しか生まなかった場合、彼女たちが結婚して嫁いで行くとしたら、子々孫々へと受け継いでいかなくてはならない先祖代々の相続地が、嫁ぎ先の部族のものとなってしまい、そこで途絶えてしまう。
それでは不服だ、という訴えである。
主は、御言葉に沿った正当な訴えは、喜んで聞いて下さる。
『モーセは主の言葉にしたがって、イスラエルの人々に命じて言った、「ヨセフの子孫の部族の言うところは正しい。ゼロペハデの娘たちについて、主が命じられたことはこうである。すなわち、彼女たちはその心にかなう者にとついでもよいが、ただその父祖の部族の一族にのみ、とつがなければならない。そうすればイスラエルの人々の嗣業は、部族から部族に移るようなことはないであろう。イスラエルの人々は、おのおのその父祖の部族の嗣業をかたく保つべきだからである。」』(民数記36:5-7)
このような場合は、自分の父祖の部族としか結婚できない、という「制限」があるかもしれない。
しかし、結婚相手の選別は、自分の好みによって行ってはならない。
主の約束と御言葉を優先させるべきなのだ。
結婚相手を自分の好みで選ぶと、大体良くない事が起きる。ノアの時代はそれでネフィリムが誕生し、サムソンはそれで身を滅ぼした。
人間の「好き」という感情は、良いもののように見えて、実は当てにならないし、何より自己中心的な感情である。
結婚相手の選別において優先すべきは、主の御心であり、主からいただくべき地をしっかりと受け継いで、それを子々孫々へと相続できるかどうか、である。
それが望めない結婚は、最初からしないほうが良い。
イスラエルの民にとって、約束の地を継ぐ権利は、最優先で守られるべき権利であり、父祖の部族の相続地は、結婚などの理由によっても、決して他に譲ったりしてはならない。
神の民である私達も、同じ価値観である。
私達が死守すべきは「天の御国を受け継ぐ権利」であり、それは結婚などによって決して奪われてはならない。
もし妻が、あるいは夫が、主の御言葉にも、天の御国にも一切興味を示さず、世において罪を飲み食いし続ける事に固持するなら、その結婚は、どんなに苦々しいものであろうか。
子を霊的に健全に育てるのに、どんなに苦労するだろうか。
民数記でのイスラエルの失敗は、主の御言葉や約束よりも、自分の好む所に従って歩もうとした事にあった。
自分達の欲望を貫かんとするために、主のさとしを跳ね除け、神とモーセに逆らい続けた民は、荒野で屍をさらし、死に絶えてしまった。
見える所によらず、見えない信仰によって歩む人、主が与えて下さると約束して下さった、その約束に従って歩む人こそ幸いである。
この民数記の終わりが、相続地を絶やさぬためには、結婚相手を選びなさい、という命令で終わっているのは、実に興味深い。
荒野での余計な歩みをせず、約束にかなった結婚し、子供達に天の御国を継がせる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!