メッセージ - 長たる者の人選は誤るなかれ(申命記1:5-18)
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『われわれの神、主はホレブにおいて、われわれに言われた、『あなたがたはすでに久しく、この山にとどまっていたが、身をめぐらして道に進み、アモリびとの山地に行き、その近隣のすべての所、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海べ、カナンびとの地、またレバノンに行き、大川ユフラテにまで行きなさい。見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に置いた。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主が、あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた所である』。』(申命記1:6-8)
これはまだ、荒野での40年を経る前の、すぐにでも約束の地に入れる望みがあった頃の話で、「久しくこの山にとどまっていた」と言っても、一年という期間である。
四十年の放浪に比べれば、一年はわずかな期間だが、それでも当時の彼らにとっては、長い期間だった。
私達の人生も、長い期間に見えるかもしれない。
しかし、永遠の栄光を得るためのボーナス査定の期間と思うなら、あるいは、ゲヘナで絶え間なく受ける永遠の苦しみを思うなら、この人生という”短い期間”を、いかに主にあって大切に過ごすべきかを知る事が出来る。
『わたしひとりで、どうして、あなたがたを負い、あなたがたの重荷と、あなたがたの争いを処理することができようか。・・・そこで、わたしは、あなたがたのうちから、知恵があり、人に知られている人々を取って、あなたがたのかしらとした。すなわち千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長とし、また、あなたがたの部族のつかさびととした。』(申命記1:12-15)
民の数は、あまりにも多いので、モーセ一人で民全体の面倒を見る事はできない。
そこでモーセは千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長を選別して、重荷を分散しようとした。
その長たちの選別基準は「知恵があり、人に知られている人々」であるが、この時の選別基準の中に、早くも、四十年の放浪という失敗の兆候があった。
モーセがこの時語っている出来事は、出エジプト記18章での出来事の回顧である。
『モーセのしゅうとは彼に言った、「あなたのしていることは良くない。あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい。
また、すべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。平素は彼らに民をさばかせ、大事件はすべてあなたの所に持ってこさせ、小事件はすべて彼らにさばかせなさい。こうしてあなたを身軽にし、あなたと共に彼らに、荷を負わせなさい。』(出エジプト記18:17-22)
モーセのしゅうと・イテロは、元はミデヤンの祭司であるが、イスラエルの神・主の素晴らしさを見て、主に立ち返ったため、素晴らしい助言をしている。
モーセのように神と人との間に立つべき人が、民の日常的な争い事の処理に時間とエネルギーを費やしてはならない、そうした事は長たちに任せ、モーセ自身は、彼らでは処理できないような事を、主から聞いて、答えを頂くべきだ、と。
モーセはむしろ、人々に神の基準を示し、主にあってどう判決すべきか、そして、人々が歩むべき道やなすべき事を教える、という、もっと神様の御用に則した事で、その身を用いるべきだ、と。
また、イテロが勧める長たる者の選別基準が、また素晴らしい。
「有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人」である。
それなのにモーセは、イテロのアドバイス通りの人選を、しなかった。
『そこで、わたしは、あなたがたのうちから、知恵があり、人に知られている人々を取って、あなたがたのかしらとした。すなわち千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長とし、また、あなたがたの部族のつかさびととした。 』(申命記1:15)
すなわちモーセは、神を畏れる人でもなく、誠実な人でもなく、不正の利を憎む人でもなく、「知恵があり、人に知られている人々」を取った。
私達が組織の人選をする上で、神を恐れる人格者よりも、多少不正をしようとも”出来る人”のほうを選びやすい。
世の中の社会ではそれで良くても、神の国の事柄を為すべき長たる者は、まず、神を恐れる事がなければならない。なぜなら神の国においては、量や力、効率よりも、霊的純粋さこそ最優して保つべき事柄だからである。
新約の初代教会では、成長するにつれて、どのような点を優先事項としたか。
『そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。』(使徒6:1-2)
教会が成長し、国際化して行く中、教会の中の社会的弱者のある人達への配給がおろそかにされている、という問題が起こった。
その時、十二弟子が言った事は、弱者を大切にしましょうとか、民族や文化の差別の無くしましょうとか、もっと互いに仲良くしましょうといった、現代クリスチャンなら真っ先に言いそうな事は一切なく、「神の言葉をほうって置いて、食事の奉仕をするのは良くない」であった。
『そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。』(使徒6:3-4)
教会では、確かに弱者救済や差別撤廃などの奉仕もするが、そうした社会活動が中心ではない。
教会が最も優先すべきは、祈りと御言葉の奉仕である。
この優先順位を取り違えて、社会活動を中心にして祈りと御言葉をおろそかにすると、教会はいびつに、不健全になって行ってしまう。
この時、十二弟子が提案した、七人の食卓の奉仕者の選別基準は何だったか。
現代の教会であれば、栄養や調理のプロ、弱い立場へ配慮が出来る人、諍いやクレーム処理するのに長けた口達者な人など、その道に通じた人を選ぶ所であろうが、彼らの選別基準は、「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち」であった。
いかに出来る人であっても、霊と知恵に満ちていないなら、落とされるのである。
また、評判の良い人でなくてはならない。教会という閉じた世界の中でしか生きられず、外の社会では通用しないような人は、選別から落とされるのである。
このような人選をし、主だった人達は祈りと御言葉の奉仕に専念し、七人が教会の奉仕に励んだ結果、神のことばはますます広まり、弟子の数は非常に増え、祭司たちも多数、信仰に入った。(使徒6:7)
モーセは長たる者の人選に誤って、過ちの根を植えてしまった。
私達は、霊的奉仕の人選に誤る事がないようにしたい。