メッセージ - 除外されてしまう期間(申命記2:1-8)
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『それから、われわれは身をめぐらし、主がわたしに告げられたように、紅海の方に向かって荒野に進み入り、日久しくセイル山を行きめぐっていたが、主はわたしに言われた、「あなたがたは既に久しくこの山を行きめぐっているが、身をめぐらして北に進みなさい。」』(申命記2:1)
ここには「久しくセイル山を行きめぐっていた」とあるが、イスラエルの民がどのくらいセイル山の周りを行き巡っていたかというと、なんと、38年以上もの年月行き巡っていたのである。それを、たった1節で片付けている。
民数記でも同じように、19章から20章の間で、38年以上もの時間をひとっ飛びしている。
色々な事件やドラマがあったであろう、その長き年月が、記録もされずに、飛ばされてしまう。そう、信仰によらない日々、すなわち、神から離れて不従順の内に過ごした年月や、罪のむくいを償還するための長き年月は、永遠の書物には、書き記されないのだ。
アブラハムも、神の約束を待つのではなく妻の助言を聞いてハガルをめとり、肉の力でイシュマエルを産んだ時、神が沈黙し、全く記録されない空白の13年があったし(創世記16:15〜17:1)、マタイの1章の系図でも、不信仰の悪い王の名は省かれてしまっており、あたかも存在しなかったかのような扱いである。
このように、不信仰の世代や、不信仰の期間は、主からカウントされず、永遠の書物から除外されてしまう、という事があるのだ。
『おまえはまた民に命じて言え、「あなたがたは、エサウの子孫、すなわちセイルに住んでいるあなたがたの兄弟の領内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。それゆえ、あなたがたはみずから深く慎み、彼らと争ってはならない。彼らの地は、足の裏で踏むほどでも、あなたがたに与えないであろう。わたしがセイル山をエサウに与えて、領地とさせたからである。あなたがたは彼らから金で食物を買って食べ、また金で水を買って飲まなければならない。』(申命記2:4-6)
荒野での40年の月年の終わりに、主は約束の地に向かって歩を進め、イスラエルの兄弟・エサウの領土を通る際の注意事項を示された。
エサウは長子の権利を一杯の食物で売った俗悪な者であるが、それでも主は、彼の父・アブラハムの故に、ちゃんと相続地を定め守っておられ、イスラエルも、彼らの土地を通過する時は、争ったりせず、食料や水を金で買うように命じている。
『あなたの神、主が、あなたのするすべての事において、あなたを恵み、あなたがこの大いなる荒野を通るのを、見守られたからである。あなたの神、主がこの四十年の間、あなたと共におられたので、あなたは何も乏しいことがなかった。』(申命記2:6-7)
主は、俗悪なエドムでさえ、きちんと相続すべき分を与えておられる事を見せ、そして彼らの権利を守るよう命じられた。
ひるがえって、イスラエルはどうだったか。
イスラエルは今まで、荒野の中でもしっかり守られ、主に養われ、導かれて来た。
「あなたは何も乏しいことがなかった」と言われたように、彼らは、いのちの危険がいつも付きまとう岩砂漠地帯を、40年も旅して来たというのに、なんと不足は無かったのである。
それは信じられない事かもしれないが、主は実際、誠実に、真実に養ってこられたのだ。
私達は、自分自身の不信仰や罪の故に、空白の13年や、荒野での38年を通るかもしれない。
たとえそうなったとしても、主の恵みと養いは、その間、尽きる事がない。
荒野での長き期間、イスラエルは一体、何万トンのマナで、何万キロリットルの水で養われたというのだろうか。
人は、無駄に日々を費やしたとは思っていても、それでも主の恵みは、途方もなく膨大に注がれていたのだ。
私達が通らされた荒野の経験は、決して無駄ではなく、その間、私達の不従順は削ぎ落とされ、信仰が培われ、主が真実に養って下さったという体験が残るのである。