メッセージ - 神が敵を頑なにする理由(申命記2:26-37)
礼拝説教メッセージ音声:神が敵を頑なにする理由(申命記2:26-37):右クリックで保存
『そこでわたしは、ケデモテの荒野から、ヘシボンの王シホンに使者をつかわし、平和の言葉を述べさせた。『あなたの国を通らせてください。わたしは大路をとおっていきます、右にも左にも曲りません。金で食物を売ってわたしに食べさせ、金をとって水を与えてわたしに飲ませてください。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。』(申命記2:26-28)
主は24節で、この国は既にイスラエルの手に渡してある、戦って占領せよ、と言われていたが、モーセは和平を申し出ている。
いきなり戦いを仕掛ける前に、和平交渉をする事は、御言葉に適った事であるが(申命記20:10)、この場合、主は既にエモリ人の国をイスラエルに渡されている事を明確に示しておられたのだから、エモリ人が和平の申し出を蹴る事は、主にあって想定内であった。
実際、このエモリ人の国は心をかたくなにし、強気になって、イスラエルに歯向かってきた。
こちらが平和に立ったのに、あちらは争いを仕掛けてきたのだから、イスラエルが正しくエモリ人が悪かったと誰もが認めざるをえない。
エジプトの時ももそうだったが、主はその国を滅ぼして神の栄光をあらわすため、また神の民を栄えさせるため、悪しき者達の心をかたくなにされる事がある。
人は言う。「それならなぜ、神は人を責められるのか。誰が神のご計画に逆らうことができるだろう。」と。しかし、それに対してはパウロは言う。
神を評価し、自分を正しいとして神を不当とするあなたは、一体何者か、と。(ローマ9:18-24)
主は確かに、ある人を滅ぼすために、その人の心を頑なにされるが、主は映画のキャストでも選ぶように、ある人は滅び役、ある人は救い役と訳もなくするわけではない。
滅ぼされる人の側に、責任があるのだ。
もし人が、欲望のままに歩む事を止めず、あくまで神に逆らい続けるのであれば、神はその人をかたくなな心のままに任せ、汚れと滅びの中へ引き渡される。(ローマ1:24)
神はむしろ、豊かな寛容をもって、長い間忍耐し、人が悪しき事を止め、主に立ち返る事をずっと待っておられるのだ。(ローマ9:22)
神はどれ程忍耐深く待たれるお方であるか。また、かたくなにされ滅びが定められてしまった人達は、どれ程恩知らずであったか。
主は、大洪水で世を滅ぼされる前、人間がはなはだ堕落していた時代を、千何年も忍耐して来られたが、人々はついに行いを改めなかった。
またエジプトは、ヨセフから受けた恩恵を仇で返してイスラエルを奴隷としてこき使い、しまいには男子が生まれたらナイルに投げ込むまでに悪を行ったが、主は400年以上もの間ずっと忍耐して来られた。それでもエジプトは、行いを改めなかった。
そして、このエモリ人の国は、アブラハムの時代からずっと何百年も悪を行っており(創世記15:16)、ついには主の憐れみの期間が尽きてしまったため、主はシホンを頑なにし、滅ぼすに任されたのだ。
このように、トータルで見るならば、主は徹底的に真実で、忍耐深くあられた事が分かり、また、それに対する人間がいかに不真実で罪深いかが浮き彫りにされる。
だから、人は誰も、主がなさる事にとやかく言う権利はないのだ。
『その時、われわれは彼のすべての町を取り、そのすべての町の男、女および子供を全く滅ぼして、ひとりをも残さなかった。』(申命記2:34)
私達も、主にあって滅ぼしつくすべきものは、惜しまずに、滅ぼしつくすべきである。
サウル王は、滅ぼしつくすべきものを惜しみ、その事をサムエルから咎められても、悔い改めず、「神への捧げ物だ」と言い訳したため、主に忌み嫌われた。
バラムも、受け取ってはならぬ不正の報酬を受け取るために奔走し、主がロバをしゃべらせて制止されたのに彼は聞かず、ついには滅びへと邁進してしまった。
神が恵み深く、悪を行っても全く罰されないのを調子に乗っていると、やがては痛い目を見る。
神はいつまでも許してくださると思い、悪の道を変えないのなら、やがて間に合わなくなってしまう時が来るのである。