メッセージ - 新しくなるために(イザヤ43:16-21)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
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キリスト教会 説教メッセージ
【概要】
キリストにある者は新しく造り変えられた存在であり、古い性質は過ぎ去り、すべてが新しくされる。神は荒野に道を、荒地に川を設け、神の民を新しく造り変えて、神の栄光を宣べ伝える者としてくださる。
【聖書箇所】
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イザヤ43:16-21
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2コリント5:16-19
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コロサイ3:1-11
【励ましの言葉】
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キリストのうちにあるなら、誰でも新しく造り変えられる
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古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなる
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主は荒野に水を湧き出させ、荒地に川を流してくださる
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私たちの命はキリストとともに神のうちに隠されている
【勧めの言葉】
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キリストのうちに留まり続けなさい
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先のことども、昔のことどもを思い出さず、主の新しいわざに目を向けなさい
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肉的な標準ではなく、キリストを中心に考えるように造り変えられなさい
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真理によって思いを塗り替え、神の子らしく歩みなさい
【戒めの言葉】
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偽りに騙されてはいけない
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以前の古い欲に戻ろうとする誘惑に負けてはいけない
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地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい
【AIによる文字起こし】
【第1部】(冒頭〜「先のことどもを思い出すな」の勧めまで)
今日、私たちが恵みをいただく御言葉は、イザヤ書43章16節から21節です。
イザヤ43:16-21
「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主は、こう仰せられる。彼らはみな倒れて起き上がれず、灯心のように消える。
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
見よ、わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。
確かにわたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
野の獣、ジャッカルやダチョウもわたしを崇める。わたしが荒野に水を湧き出させ、荒れ地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
わたしのために造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
アーメン。
主は、造り替えの主であられます。私たちの古い性質を過ぎ去らせ、終わりとし、神の子として、まったく新しく造り替えてくださるお方です。罪の性質を取り除き、神の子にふさわしい性質を新しく形づくり、ジャッカルやダチョウにたとえられるようなあり方をも取り除いて、私たちを聖なる者として新しくしてくださる主です。
「福音」とは、良い知らせです。では、何がそれほど良い知らせなのでしょうか。なぜ私たちはイエス・キリストを慕い、なぜ教会へ集うのでしょうか。
教会に食べ物があるから、ということではありません。私たちは御言葉を聞くために来るのです。御言葉によって、私たちは整えられ、日々新しく造り替えられていきます。かつてはダチョウのような性質を抱えていたとしても、御言葉を聞き、受け取る者へと、主は造り替えてくださいます。
実際に、「ダチョウのような性質も神を崇める」という御言葉を信じて祈り続けるうちに、かつての性質が取り除かれ、驚くほど穏やかで品位ある人へと造り替えられていく姿を、私たちは目の当たりにすることがあります。
福音が良い知らせである理由の一つは、まさにここにあります。古いものが過ぎ去り、すべてが新しくされる――その秘訣が御言葉の中にあり、イエス・キリストのうちにあるからです。だから私たちは教会に集い、御言葉に耳を傾けるのです。
主は、イザヤ書43章で「先のことどもを思い出すな。昔のことどもを考えるな」と仰せになります。礼拝の中に、なお「先のことども」「昔のことども」、あるいは、さきほどまで心を占めていた思い煩いや不安を持ち込んだままでいるなら、ここで受け取るべき恵みを受け損ねてしまいます。
ですから今、私たちの思いを主の御前で静め、主に向け直しましょう。先のことども、思い煩いを、今この時、主の手にお委ねしましょう。
【第2部】(造り替えの確かさと「目的」〜2コリント5:16-17まで)
皆さんはキリストにあって、確かに造り替えられます。たとえ私たちがしつこく過去を思い返し、古い性質に引き戻されそうになったとしても、主はなお私たちに働きかけてくださいます。私たちが主に立ち返るなら、それでよいのです。
ただし、この恵みの招きには、私たちが軽んじてはならない厳粛さもあります。私たちが「立ち返るべき時」を先延ばしにしてよいのではありません。主に立ち返るなら、造り替えは確かに起こります。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされます。
なぜ、私たちは造り替えられるのでしょうか。そこには神の目的があります。20節が語るとおり、主を崇める者となるためです。
「ジャッカルやダチョウもわたしを崇める」とあるのは、主が荒れ地に川を流し、主の民、選ばれた者に飲ませてくださるからです。どれほど荒れた者であっても、どれほど愚かさを抱えていたとしても、主はその人を潤し、主を崇める者へと導かれます。
さて、この造り替えには、聖書がはっきり示す要点があります。御言葉は「無条件に、だれでも自動的に新しくなる」と語っているのではありません。鍵となるのは、**「キリストのうちにあるなら」**ということです。キリストのうちにあるなら新しくされます。キリストのうちにとどまらないなら、造り替えは実を結びません。
そのことを、第二コリント5章は明確に語ります。
2コリント5:16-17
「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はそのような知り方はしません。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
アーメン。
キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。私たちが教会に集うのは、ただ何かを享受するためではなく、御言葉を受け、キリストのうちにとどまり、造り替えにあずかるためです。キリストのうちにあるなら、古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなります。
教会においては、かつて「人間的な標準」、すなわち肉的な物差しで物事を見ていた者が、その枠を越え、キリストを中心にして考え、歩む者へと変えられていきます。
この「人間的な標準」とは、直訳すれば「肉によって」という意味合いです。かつては肉的な考え方でキリストを理解していたとしても、今はもはや、そのような知り方はしません。
世の多くの人は、キリストを、過去の偉人の一人のように捉え、聖書を昔話のように扱うことがあります。残念ながら、教会の中にも、そのような伝え方にとどまってしまうところがあるかもしれません。しかし私たちは、肉的な標準でキリストを知ろうとはしません。キリストのうちにあるなら、造り替えが起こるからです。それは昔も今も変わりません。使徒パウロの時代と同じ造り替えが、今日を生きる私たちにも起こり得るのです。
【第3部】(ペテロとユダの対比〜「和解の務め」まで)
ペテロは、イエス様を知らないと三度言いました。しかし彼は造り替えられました。なぜなら、倒れながらも、なおキリストのもとにとどまったからです。
一方、イスカリオテのユダは、最後まで自分の価値観に固執し、キリストのもとに立ち返る道を選びませんでした。自分の歩みを自分で結論づけ、そこで終わらせてしまいました。
しかしペテロは、自分の誇りを脱ぎ捨てました。「もはや自分は何者でもない。ただキリストにすがるしかない。」その姿が、復活の主と再会したときに表れます。ペテロは上着をまとい直し、そして水に飛び込み、主のもとへと向かったのです。裏切りの痛みを抱えながらも、なお主を手放さなかったのです。
私たちも、自分の弱さや罪に打ちひしがれることがあるでしょう。しかしそのときこそ、何もかも抱えたままで、キリストのもとへと走り寄るのです。そうするなら、造り替えは起こります。ペテロは大胆な証人へと造り替えられ、多くの人々の前で、イエス・キリストを証しする者となりました。キリストのうちにあるなら、だれでも造り替えられるのです。古いものは過ぎ去り、新しくされます。
ただし、これらは、私たちを単に心地よくさせるための出来事ではありません。私たちが新しくされるのは、「神から出ている」からです。造り替えは神の御業であり、神の目的に結びついています。
第二コリント5章18節から19節は、その目的を語ります。
2コリント5:18-19
「これらのことはすべて神から出ているのです。神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」
私たちには「務め」があります。これは働き(ミニストリー)です。主が私たちを造り替えるのは、私たちがこの職務――和解の務めを担うためです。神とこの世とを和解へ導くための務めです。
イエス様は今、地上において肉体をもっておられる形ではおられません。しかし私たちは肉体をもっています。キリストは、私たちを通して、和解の務めを進められます。神がこの務めを地上でなされるとき、神は私たちを用いられるのです。
私たちは「自分に務めが果たせるのか」と恐れを覚えるでしょう。しかし主は、私たちにその務めを託されました。だからこそ、私たちは新しく造り替えられた者とされたのです。肉的な思考に支配される歩みを脱ぎ捨て、神の御心のために整えられていくのです。以前のものは過ぎ去ります。
【第4部】(コロサイ3章〜たとえ〜コロサイ3:5-11〜結び)
それゆえ、私たちはもはや、以前の「肉的な標準」によって動くのではありません。肉的な思考パターン、肉的な衝動に導かれる歩みから、主は私たちを解放し、神の和解の務めのために整えてくださいます。以前のものは過ぎ去ります。
そして、そうであるならば、聖書ははっきりと語ります。もはや以前のものは、「死んだ」のです。過去形で記されています。そのことが、コロサイ人への手紙3章に書かれています。
コロサイ3:1-4
「こういうわけで、もしあなたがたがキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右に座を占めておられます。
あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されてあるからです。
私たちのいのちであるキリストが現れると、そのとき、あなたがたもキリストとともに栄光のうちに現れます。」
アーメン。
ここには、「あなたがたはすでに死んでおり」と明確に書かれています。そして、「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されてある」とあります。つまり、真理の上では、すでに「古い人」は終わり、私たちはキリストとともに死に、そして新しい命に生かされているのです。これは事実です。
ところが、私たちがなお「死んでいないかのように」、あたかも古い人のままで生きているかのように振る舞ってしまうことがあります。それは、頭の中に残っている古い思考パターン、古い記憶、古い思い込みが、なお強く私たちを引きずるからです。真理の上では新しくされたのに、古い考え方で動いてしまうと、結果として「古い自分」であるかのように生きてしまうのです。
ここで、たとえ話をいたします。もし仮に、「イエス・キリストを信じた犬が人間になる」という法則があるとしましょう。犬は四本足で歩きますね。ところが、その犬が信じて、すでに人間に造り替えられたにもかかわらず、なお四本足で歩き続けているなら、それは以前の行動パターンが染みついたままだからです。
しかし神の目から見れば、また周囲の客観的な目から見れば、その存在はすでに「犬」ではなく「人間」になっています。けれども本人の内側だけが、「自分は犬だ」という古い認識のまま生きてしまっている――そういう状態に似ています。
だからこそ必要なのは、頭の中に残る古いパターン、古い思い込みを捨てて、真理を適用することです。「自分はキリストにあって新しく造り替えられた。古い命は終わった。新しい命が与えられた。」この真理をもって、自分の思いを塗り替えていくのです。
真理によって思いを塗り替えていくとき、私たちはますます神の子らしく整えられていきます。たとえ話の中でも、もし「自分はもう犬ではない。人として生かされているのだ」と理解するなら、以前の習慣を改め、ふさわしい歩みに向かっていくでしょう。もちろんこれは比喩ですが、言いたいことは明確です。私たちもまた、「古い自分はすでに終わった」という真理を、御言葉によって思いに刻み、日々塗り替えていく必要があるのです。
コロサイ3章3節を、改めて味わいましょう。
コロサイ3:3
「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちはキリストとともに神のうちに隠されてあるからです。」
アーメン。
この御言葉を、どうか思いの深いところに塗り込んでください。
そうするなら、古い生活パターン、古い罪の思考、古い反応は、御言葉によって少しずつ塗り替えられていきます。そして、神の子としての実態を、ますます身にまとっていくようになります。神の子としての栄光が、生活に現れてくるのです。造り替えが進んでいきます。
続いて、コロサイ3章5節以降を読みます。
コロサイ3:5-11
「ですから、地上の体の諸部分、すなわち不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりがそのまま偶像礼拝なのです。
このようなことのために神の怒りが下るのです。あなたがたも以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。
しかし今は、あなたがたもすべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨ててしまいなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
新しい人は、造り主の形に似せられて、ますます新しくされ、真の知識に至るのです。
そこには、ギリシア人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スキタイ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」
アーメン。
ここで9節は、「互いに偽りを言ってはいけません」と語ります。これは、互いに対してだけではなく、自分自身に対しても、また敵のささやきに対しても、真理を守りなさいということでもあります。私たちは騙されてはなりません。
サタンはしばしば、「以前のほうがよかっただろう」「その欲に戻れば楽になる」と、偽りを吹き込んできます。しかし、騙されてはなりません。私たちはすでにキリストにあって、新しい人を着たのです。古いものは過ぎ去りました。
「新しい人は、造り主の形に似せられて、ますます新しくされ、真の知識に至る」とあります。つまり、造り替えは一度きりの出来事で終わるのではなく、主の御手の中で、さらに進み続けていきます。
ですから、怒り、憤り、悪意、そしり、貪り、恥ずべきことば――そうしたものに引きずられないようにしましょう。
私たちのアイデンティティは「神の子」です。古い人は過ぎ去り、古い命は終わり、キリストにあって新しい命が与えられました。これが私たちの真理であり、立つべき土台です。
たとえ話のように、もし私たちがなお古い歩み方に戻ろうとするなら、それは「古い認識」に引きずられているからです。しかし、御言葉の真理をもって思いを塗り替えるなら、私たちは新しい命にふさわしく歩むことができます。神の子として、ますますキリストの似姿へと造り替えられていきます。
どうか皆さんが、古いものに縛られず、キリストにあって新しい命を大胆に生き、ますます新しくされていきますように。主が私たちを造り替えてくださることを信じ、真理のうちに立ち続ける者となれますように。
主イエス・キリストの御名によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者であり、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった。私たちはすでにキリストとともに死んでおり、私たちのいのちはキリストとともに神のうちに隠されている。肉的な思考パターンや古い行動パターンを真理によって塗り替え、神の子としてのアイデンティティをしっかりと持って、神の和解の務めを果たすために、キリストの似姿へとますます造り変えられていく歩みを続けよう。





