メッセージ - 栄光の家系の女達 - マリヤ3 マリヤの賛歌(ルカ1:46-55)
栄光の家系の女達 - マリヤ3 マリヤの賛歌(ルカ1:46-55)
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『わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救主なる神を「たたえ(大いに喜び)」ます。 この卑しい女をさえ心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしを幸いな女と言うでしょう。』(ルカ1:46-48)
ルカ1:46〜55の箇所は「マリヤの賛歌」と呼ばれる有名な歌である。マリヤは自分を、「どの時代の人々もうらやむ幸いな女」と言う程、喜びに喜んだ。彼女のように大いなる幸いを得るための秘訣を探りたい。
彼女が主を「あがめる」と言った言葉は、ギリシャ語で「メガリュオー」、「大きくする」という意味であり、また「卑しい(タペイノシス)」と自分を呼んだ言葉は、「低い」「陽のあたらない」等の意味がある。
つまり、マリヤの魂は主を大きくし、自分を低く、卑しくしたのだ。
バプテスマのヨハネも、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言ったように、主を大きくし、自分を小さくする姿勢こそ、聖書で成功している聖徒達の性質であり、私達もならうべき姿勢であり、そして、世の何者にも勝る平安と喜びに満たされるコツである。
逆に、神を「小さく」して、自分を「大きく」する事、それは神の力を自ら制限する事に他ならない。
私達が心配したり、自分の事で頭がいっぱいになっている時、神を小さくし、働けなくしてしまっているが、自分を下ろし、神を大きくするなら、無限なる神が主体性を持って働かれ、大きな事を為して下さる。
私達は、主に対しては清純な乙女として低くへりくだるべきであるが、世に対しては、王族の祭司として主イエスの名によって大胆に神の子としての主権を行使し、サタンに対しては、イエスの名によって強く雄々しく立ち向かい、大いに勝利し分捕るべきである。
マリヤは続いて、傲慢な者がたどる道についても歌っている。
『主はみ腕をもって力をふるい、心の思いの奢り高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。』
自分を大きくし、主たるお方を小さくするのは、聖書では失敗する典型であり、強制的に低くされてしまう。
例えば、アブラハムの妻・サラの女奴隷であったハガルは、自分が身篭ったのを知ると、アブラハムの家の「はしため」である地位を忘れ、傲慢になり、女主人であるサラを軽んじるようになった。(創世記16章)
マリヤは、神の子を身篭った事を聞いた時、自分を卑しく低くしたが、ハガルはその全く逆だった。
それ故ハガルは追い出され、道を行く途中、主の使いに声をかけられた。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」 主の使いはハガルの本来の立場である「サライの女奴隷」と呼び、彼女はそれに対し、自分は「”女主人”サライのもとから逃げているところです」と答えた。
彼女がもし「自分はアブラムの妻になってしかるべき」とか「サライは不当だ」などと自己主張していたら、どうなっていただろうか?それは、アダムやエバ、カインが自己主張した結果を見れば、大体想像できる。
彼女が正しい立ち位置を宣言したので、主の使いは「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と、本来あるべき姿、あるべき所へ帰るよう諭し、そして、「あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」と、祝福の約束も与えられた。主従関係において、正しい立ち位置に戻るなら、主は祝福を戻して下さるのである。
キリストは、神であられるのに自分を低くし、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
このように、神の力強い御手の下にへりくだるなら、神はちょうど良い時に高くして下さるのだ。(1ペテ5:6)
マリヤは、霊においては「救い主」なる神を、大いに喜び楽しんだ(47節)。
皆さんは、若い花嫁が花婿を喜び楽しむように、主を喜び楽しんでいるだろうか?
私達を再建して下さる主もまた、私達を喜びとされる。「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:5)
マリヤが大いに喜んだ根拠は「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったから」だった。
万物はキリストのために存在し、キリストにあって成り立っている。その偉大な主が、私達の所に下りて来られ、私達と実際に関わり、しかも、私達の内に宿って下さる。それはどんなに莫大な喜びであろうか。
「そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。」(ルカ1:49-50)
マリヤに与えられた、途方も無い幸いと祝福は、主を大きくし、自分を低くする人のものなのだ。
万物の存在の根拠なる主を喜び楽しみ、そして、その主からも喜び楽しまれる皆さんでありますように!