メッセージ - 断られてしまったモーセの願い(申命記3:23-29)
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モーセは、荒野放浪の最後の年に犯してしまったあのメリバでの過ちの故に、約束の地には入れないと宣告されていた。(民数記20章)
あれだけの実績を残したモーセが、なぜ、ただ一度の失敗の故に、約束の地に入れなくなってしまったのか。
それは、荒野で40年もイスラエルと共に歩んできた「岩なるキリスト」に、尊敬と信頼をもって「語りかけ」、水を出していただくべきだった所を、民を怒る怒りに身を任せ、御言葉を無視し、岩なるキリストを二度「打って」しまったからだ。
「打つ」のヘブル語「ナーカー」には、他にも「罰する」「殺す」などの意味がある。十字架上で一度打たれ罰されたキリストを、二度も打つような事は、いかにモーセのような実績を残した人と言えども、許されないのだ。
(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1649&cid=35 )
彼らが約束の地に近づくにつれ、主は次々と輝かしい勝利をイスラエルに与えて下さっている様を見たモーセは、ああ、やっぱり自分も約束の地に入りたい、と思ったのだろう。
彼は「どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにしてください。」とお願いしてみたが、主の返事は、とてもつれなかった。
『おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。おまえはピスガの頂に登り、目をあげて西、北、南、東を望み見よ。おまえはこのヨルダンを渡ることができないからである。しかし、おまえはヨシュアに命じ、彼を励まし、彼を強くせよ。彼はこの民に先立って渡って行き、彼らにおまえの見る地を継がせるであろう。』(申命記3:26-28)
私はかつて、この箇所を読んだ時、すごい切なさを覚えた。
それは、長い間ある事を主に願い求めて来たのに、主からは何の返事も無く、また与えられる兆候も無く、ただ延々と断られ続けているかのように感じていた時だった。
イスラエルを約束の地に入れようと、長い年月、多くの苦労をしながら、主のために働いて来たあのモーセが願ったのに、主がすげなく断ってしまう様を見て、やるせない気持ちになったものだが、後になって思い返すと、あの時の私は、モーセと自分を連ねるなど、全くもっておこがましく自分勝手な状態だった事に気づいた。
モーセの場合は、主が示された約束の地に入れなくて切ない思いをしている、というのに、あの時の私は、全く逆だった。
つまり私は、神の国の事よりも、世の幸いや栄えを求めていて、それが与えられないからと悲しんでいたのだ。
私はずっと主にあって世から守られ、神の国の中で主と共にいたというのに、そんな素晴らしい状態に気づかず、むしろ、世のスタンダードに従って生きようとし、世間的に「幸せ」とされている事が満たされるほうを、願い求めていたのだ。
それまで、自分はまっとうなクリスチャンとして歩み、主が約束された国を望み見て歩むヨシュアとカレブの側の生活をしていた、と、思っていたら、実は全く逆で、むしろ世(エジプト)をなつかしみ、荒野でマナしか無い事を「みじめだ」と言って嘆いている、あの、荒野で滅ぼされてしまったイスラエル人のパターンに陥っていたのだ。
私は今や、主にとても感謝している。
主が私に計画されていた事は、世間一般の人たちが得ている普通の楽しみより遥かにまさる者として召しだされ、人々を永遠のいのちへと導き救うようにと、永遠の栄光をもたらす務めに任じられており、御言葉という、決して変わらぬ愛の法則を伝える栄光にあずかっているのだから。
よくぞ主は、私を世の中に安住する事を留め、自分で思っても見なかった程の栄光と幸いを与えて下さった、と、本当に感謝している。
皆さんも、かつての私のように、神の国の事ではなく、世の栄えや世の楽しみが与えられない事で、切なくなっていないだろうか。
私達が目指し、近づいているのは、世の栄華よりはるかに優れた、天の故郷である。
『また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。・・・
しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。』(ヘブル12:16-25)