メッセージ - 見えるものによらず、御言葉によって(申命記4:9-19)
礼拝説教メッセージ音声:見えるものによらず、御言葉によって(申命記4:9-19):右クリックで保存
モーセは、民がホレブで見た事を思い起こさせている。
イスラエルの民は、そこで大いなる光景を見た。
『あなたがホレブにおいて、あなたの神、主の前に立った日に、主はわたしに言われた、「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしの言葉を聞かせ、地上に生きながらえる間、彼らにわたしを恐れることを学ばせ、またその子供を教えることのできるようにさせよう。」そこであなたがたは近づいて、山のふもとに立ったが、山は火で焼けて、その炎は中天に達し、暗黒と雲と濃い雲とがあった。』(申命記4:10-11)
モーセは、あのホレブで見たことを忘れるな、その事を子や孫に教えよ、と言っている。(申命記4:9)
あの時、火が山の上にあって、炎は中天に達し、山全体は黒雲に包まれて震え動き、雷鳴と角笛の響きが高く鳴り響く中で、主は降りて来られたのだが、その大いなる現象の中で、モーセが最も強調している事は、主はその中に見える形では見い出せなかった事だ。
「主は火の中から、あなたがたに語られたが、あなたがたは言葉の声を聞いたけれども、声ばかりで、なんの形も見なかった。」(12節)
後の時代の預言者エリヤも、同じ場所で、同じ体験をしている。(1列王記19:11-13)
イスラエルの民と、エリヤの二者が共通して体験した事は、主は大いなる現象を起こされたものの、主を見る事は出来なかった事、そして、主が御声をもって語られた、その内容のほうが、現象よりも重要である事だ。
『主はその契約を述べて、それを行うように、あなたがたに命じられた。それはすなわち十誡であって、主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。その時、主はわたしに命じて、あなたがたに定めと、おきてとを教えさせられた。あなたがたが渡って行って自分のものとする地で、行わせるためであった。』(申命記4:13-14)
人々は何かと、主から石版をもらったとか、大いなる現象を見て体験したとか、そういった事を誇りやすい。
しかし大切なのは、その石板に記されている中身であり、その内容を、自分達の生活ステージのただ中で実行する事である。
いかに牧師が奇跡を行ったり感動的なメッセージをしたとしても、集っていた人達が、その与えられた御言葉を自分の生活の場に持ち帰り、それを守り行わないとしたら、何の益も無いのだ。
『それゆえ、あなたがたはみずから深く慎まなければならない。ホレブで主が火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたはなんの形も見なかった。』(申命記4:15)
主はここで再度、主について「なんの形も見なかった」と繰り返している。
私達も、目に見えるものにではなく、目で見えない御言葉にこそ、目を留めるべきなのだ。
『わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。』(2コリント4:18)
そして主は、神といわれるものに関して、目に見える像を作る事を禁じている。(申命記4:16-19)
すなわち、自然界で目に見えるものは何でも、それが男であれ女であれ、動物であれ、天体であり、自分のためにそうした像を作って、それを拝んだりする事を禁じている。
『あなたはまた目を上げて天を望み、日、月、星すなわちすべて天の万象を見、誘惑されてそれを拝み、それに仕えてはならない。それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。』(申命記4:16-19)
昔の人は、地球が全ての中心で、太陽や月、星々は地球の周りを回っていると思っていたが、実のところ、それら星々のほうが、地球よりもはるかに大きかったのだ。
宇宙は、私達の目(地球から観測できる光)の届く範囲だけでも、137億光年もの広さがあり、そのさらに先はもっともっと広大な宇宙が広がっていると言われている。
その広大な宇宙に点在している星々も、太陽も月も、なんと、「それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。」
あの宇宙に浮かぶ巨大な星々は、このちっぽけな地球に住む万民に分け与えられたものなのだ!その事は、人の想像できる範囲を、遥かに超えている。
それ程に、主は、人の小さな頭では収まりきらないお方なのだ。
だから私達は、神に似せて何物も偶像(イメージ)を作ってはならない。
それはあまりにも愚かな事だ。