メッセージ - 聞き、学び、守って行え(申命記4:41-5:5a)
礼拝説教メッセージ音声:聞き、学び、守って行え(申命記4:41-5:5a):右クリックで保存
申命記4章までの所で、モーセは、イスラエルが荒野で放浪してきた年月の労苦と災いを思い起こさせ、今後そのようにならぬよう、こんこんと教えて来た。
荒野の放浪に陥らないコツは、御言葉に聞き従い、守り、行っていくべき事だった。
そして5章以降で、モーセは、イスラエルが守るべき「おきて」と「定め」を、具体的に教え始める。
『さてモーセはイスラエルのすべての人を召し寄せて言った、「イスラエルよ、きょう、わたしがあなたがたの耳に語る定めと、おきてを聞き、これを学び、これを守って行え。』(申命記5:1)
モーセはこの命令を、再び、「聞きなさい」で始めている。
「信仰は、聞くことから始まり、聞くことは主の御言葉による」(ローマ10:17) と言われているように、御言葉に聞く事は、聖書の中で重要な命令である。
イスラエルが約束の地へと行くのに、本来なら、わずか11日で行ける道のりを、38年もかかってしまったのは、実に、御言葉に聞き従わず、自分の好き勝手にしたい、という思いによって、主が与えて下さった約束を上塗りしてしまったためだ。
サムエルも、サウル王に言っている。
「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた。」(1サムエル15:22-23)
また、聞くだけでなく、聞いた御言葉を「行う事」も忘れてはならない。
主の兄弟ヤコブは言っている。
『そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。』(ヤコブ1:22-25)
聞いた御言葉を聞いただけでは、何も起きない。しかし、それを信仰によって守り行うなら、その行いによって祝福されるのだ。
私達は、聞いた御言葉を、3歩歩いたら忘れてしまうような、霊的鳥頭になってはいけない。
そうならないためにこそ、私達は聖徒の交わりを保ち、互いが互いを清く保ち続けるために、御言葉によって、互いに教え、戒め遭うべきである。
『キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。』(コロサイ3:16-17)
シモン・ペテロは主を裏切ったが、主の交わりから離れなかった故に、立ち直った。
しかし、交わりから離れてしまったイスカリオテのユダは、自分勝手な美意識に殉じて、滅んでしまった。
いかに失敗しても、いかに恥ずかしくても、主にある兄弟姉妹の交わりから決して離れず、互いに教え、訓戒し、霊的に磨き合いつつ、ますます整えられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!