メッセージ - モーセが示した十戒の第五〜第七戒(申命記5:16-18)
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十戒の第四戒までは神と人との関わりについての戒めであったが、第五戒からは、人と人との関わりについての戒めとなる。
その人間関係における第一の戒めは、以下である。
『あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え。あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く命を保ち、さいわいを得ることのできるためである。』(申命記5:16)
この世のあらゆる関係は、権威構造によって成り立っているが、立てられている権威に服さないと、権威構造で成り立つ世界・全てに敵対してしまう事になる。
例えば、罪を犯した指名手配犯は、警察や人の目から逃げるようにして生きなくてはならず、心落ち着かず、国や世間からの恩恵にも預かれないが、それと同じように、神の権威に服さない人は、神からの恩恵に預かれないまま、神の処罰を恐れて生きなくてはならず、平安も無く生きなくてはならない。
しかし主イエス様は、そんな私達の身代わりとして罪の処罰を受けて下さった。
私達は彼を信じる事によって、神との和解をいただき、神からの恩恵にも預かって生きるようになったばかりでなく、神の国の市民としての特権をも得るようになったのだ。
父と母、それは、最も身近で根本的な「権威」である。
その最も身近な権威である父母に服すなら、目に見えない神との正しい関係も容易に構築しやすい。
しかし、最も身近な権威である父母にさえ服す事が出来ないなら、ましてや、この世の社会や、目に見えない神に服す事は、いかに難しいだろうか。
だから、父母という、目に見える、最も身近な権威に服す事が、人間関係における第一優先あり、それは「長く命を保ち、さいわいを得ることのできる」祝福の約束を伴ったものである。
ただし権威には順序がある。
『子たる者よ。「主にあって」両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
ここで忘れてはならない事は、「主にあって」両親に従う事である。
主を度外視した世の権威への服従は、たといその相手が両親であっても、過ちの元である。
十戒の第1〜第4に示されていた通り、権威の第一は、両親よりも、主である。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
このように、主に反する事以外であれば、父母は敬い服従すべきものである。それによって幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。
第六戒は『あなたは殺してはならない。』(申命記5:17)である。
聖書には、人がいかに尊い存在であるのかが、書いてある。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)
人は、神の息吹が吹き込まれた「神の似姿」であり、本来、全ての生き物を治めるものとして創造され、生んで増えて地に満ちる祝福された存在である。
人が神に不従順して罪と死を導入し、神の怒りを受けるべき存在となっても、なお、神はひとり子を賜ったほどに世を愛し、御子を人の身代わりとして差し出したほどに、人は神に愛され、神から大切にされた存在である。
それほどまでに尊ばれた人のいのちを奪う事は、どれほどに神を冒涜する事だろう。
第七戒は『あなたは姦淫してはならない。』(申命記5:18)である。
姦淫とは、妻や夫など、唯一愛すべき相手がいるにもかかわらず、それ以外の者と愛の関係を結ぶ事である。
なぜそれがいけないのか。
姦淫は、性的な罪であり、性的な事柄とは、いのちを生み出し家庭を築き上げて行く事柄であり、父あるいは母たる人が、姦淫を犯すなら、その家庭は崩壊してしまうからである。
主は人を、創造のはじめから男と女とに創られた。
『そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。』(創世記2:23)
ここには「ふたりは一体である」と書かれてある。
ソロモンには妻と妾があわせて千人いたが、神は、ご自分のかたちに人を創造され、男と女とに創造されたのは、千対一ではなく、一対一なのだ。
アブラハムにもヤコブにもダビデも妻は複数いたが、いずれの妻も、子供も、それによって災いが起きて不幸になっている。
主の御心は、夫と妻との関係は「一対一」で、排他的なものである。
以上の三つの戒めには、従うべき権威と、自分がおるべき立場、保つべき立ち位置が示されている。
それは創造の秩序であり、主が立てられた権威を守ることが、人間にとって最も幸せへの近道なのである。