メッセージ - モーセが示した十戒の第十戒(申命記5:21)
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十戒の第十戒は、『あなたは隣人の妻をむさぼってはならない。また隣人の家、畑、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをほしがってはならない。』(申命記5:21)である。
ここの箇所も、出エジプト記の記述と若干違っている。
見比べてみると、出エジプト記では、主は「隣人の”家”をむさぼってはならない。」と始まるのに対し、申命記では、「隣人の”妻”をむさぼってはならない。」と始まる。
モーセが四十年、イスラエルを指導したり観察し続けて来た結果、「隣人の家」より「隣人の妻」を気をつけるべきだと気付き、そこを強調したのかもしれない。
現代日本でも、浮気、というと、そんなに珍しいものではなくなっているが、それ程に、人が陥りやすい罠である。
隣人の妻、それは、手を出してはならない禁断の実であり、それに手を出したら、両者の家族を、もろとも破滅へ突き落としてしまうものだ。
この箇所の「むさぼる」あるいは「欲しがる」と訳されたヘブライ語「カゥマド」は「好ましく思う」、「あこがれる」等の意味がある。
殺すな、盗むな、という法律は、大抵の国にあるだろうが、隣人のものを欲しがったり、あこがれたりしてはならない、という法律は、とても珍しい部類に入るかもしれない。
しかし、この「他の人のものを欲しがったりあこがれたりする心」こそ、自分の身ばかりでなく、自分の周り全体をも滅びへと導いてしまう根源である。
この「カゥマド」という言葉が聖書で最初に出て来るのは、創世記3章6節である。
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには「好ましい(カゥマド)」と思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
エバが禁断の木に手を伸ばして、人類全部に罪と死を導入してしまった背景に、この、「好ましい(カゥマド)」があったのだ。
もう一つ、多くの人を滅びへと導いた事例の中に、ヨシュア記のアカンがいる。
『アカンはヨシュアに答えた、「ほんとうにわたしはイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。わたしがしたのはこうです。わたしはぶんどり物のうちに、シナルの美しい外套一枚と銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本のあるのを見て、「ほしくなり(カゥマド)」、それを取りました。わたしの天幕の中に、地に隠してあります。銀はその下にあります」。』(ヨシュア記7:20-21)
彼は、手に入れてはならぬ「聖絶すべきもの」を欲しがり、それを自分の中に導入した結果、イスラエル宿営全体を「聖絶すべきもの」としてしまい、それが明るみに出された暁には、彼自身だけでなく、彼の家族をも滅びへと導いてしまった。
この、自分の分ではないものを、欲しがったり、あこがれたりする心こそ、自分だけでなく、自分の家族をも滅びへと導いてしまう根源である。
なお、聖書の他の箇所を見ると、カゥマドする事が、大いに推奨されるべきものもある。
『主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。これらは金よりも、多くの純金よりも「慕わしく(カゥマド)」、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。』(詩篇19:7-11)
主のおきて、主のあかし、主のさとし、主の戒め、主へのおそれ、主のさばき。それらは、大いにあこがれ求めて良いものである。
それらの良さ、麗しさが分かると、ますますそれらを純金よりも慕わしく、蜜よりも甘く慕わしいものとなり、ますます祝福され、大きな報いを受けるようになるのだ。
また、もう一つ、慕い求めて良いものがある。
『わが愛する者の若人たちの中にあるのは、林の木の中にりんごの木があるようです。わたしは大きな「喜び(カゥマド)」をもって、彼の陰にすわった。彼の与える実はわたしの口に甘かった。彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。』(雅歌2:3-4)
皆さんの伴侶も、慕わしく求めて然るべきものである。
そして私達にとって、慕い求めるべきまことの主人は、キリストである。
自分の領分に入れてはならない禁断のものは、手に入れてしまうと、自分だけでなく、周囲をも滅びへ突き落とす。
私達はそうではなく、御言葉を、伴侶を、そして真の主人であるキリストをこそ、慕い求めるべきなのだ。