メッセージ - 御言葉の先にある分かれ道(申命記5:22-33)
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主が、大きな火の中から十戒を授けられた時、民は恐れ、モーセに言った。
『およそ肉なる者のうち、だれが、火の中から語られる生ける神の声を、われわれのように聞いてなお生きている者がありましょうか。あなたはどうぞ近く進んで行って、われわれの神、主が言われることをみな聞き、われわれの神、主があなたにお告げになることをすべてわれわれに告げてください。われわれは聞いて行います。』(申命記5:26-27)
主が圧倒的な臨在の中から御言葉を語られる様は、とても恐ろしく、人は無事に立ちおおせるものではない。
預言者イザヤも、エゼキエルも、ダニエルも、使徒ヨハネも、その圧倒的「聖」を前にして倒れ、死人のようになった。
人がそのままで主の御前に立つなら、主のあまりにも「聖」なる有り様に打たれて死んでしまうのだ。
しかし、いずれの聖徒も、死ぬことはなかった。
むしろその時、主は「恐れるな」と言って、立ち上がらせて下さり、御言葉の深みへとさらに導いて下さった。
モーセも民に「恐れるな」と言った。しかし民は恐れ、近づこうとはしなかった。(出エジプト記20:18-21)
モーセも「わたしは震える」と言った程、恐ろしかったのだが、それでもモーセは、民を残し、一人、主の御元に近づいて行った結果、彼は死ぬ事なく、誰よりも主と親しく交わり、主から直接の御言葉の養いを受けた。
イスラエルの民のように、直接主に近づこうとせず、モーセなど霊的指導者に「あなたが代わりに行って下さい、わたしは聞き従いますから」と言うような人の信仰には、やはり、脆弱さがある。
その証拠に、イスラエル民はその後、わずか40日後に、早速偶像を作って、その前で座しては食い飲みし、立っては戯れた。
主があれだけはっきりと、圧倒的な臨在の中から「わたしの他に神があってはならない」「偶像を作ってはならない」と戒められたというのに。
しるしや現象ばかりを追求し、いかに多くそれらを経験しても、御言葉に直接向き合おうとしない者は、すぐ御言葉を忘れ、主を怒らせる事をしてしまうものなのだ。
御言葉の剣が立った時、私達には、二つの道しか無い。
聞き従って、いのちを得るか。それとも、従わずに死へ向かうか。
御言葉を元に祝福と呪いの道を示したのに、どちらを取るとも言わず、5分も10分もただ沈黙してやり過ごそうとする人達を見て来たが、そういう人は、御言葉に聞き従う事は嫌、でも、聞き従わない結果の災いも受けたくない、という、どっちつかずの人だ。
そのように「御言葉に沈黙する人」が刈り取ってしまう実は、「手足を縛られ、外の暗闇に追い出され泣いて歯ぎしりする」という実である。(マタイ22:12)
主の願いは、人が常に、主に対する恐れと敬意を持ち、御言葉を守り、そして、子々孫々と永遠に幸いを得る事である。
『ただ願わしいことは、彼らがつねにこのような心をもってわたしを恐れ、わたしのすべての命令を守って、彼らもその子孫も永久にさいわいを得るにいたることである。』(申命記5:29)
私達は「守り行え」と言われる時、ある種の窮屈さを覚えるかもしれない。
しかし、主の御言葉を守り行った先には、必ず幸いがあるのだ。
『それゆえ、あなたがたの神、主が命じられたとおりに、慎んで行わなければならない。そして左にも右にも曲ってはならない。あなたがたの神、主が命じられた道に歩まなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつさいわいを得て、あなたがたの獲る地において、長く命を保つことができるであろう。』(申命記5:32-33)