メッセージ - 私達が正しいからではない(申命記9:1-6)
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イスラエルが、これから攻め込もうとしている地は、イスラエルよりも大きく、強い国々である。
そして、彼らの親の世代から『アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか』と言われるのを、彼らは子供の時から聞かされていた。(申命記9:1-2)
不信仰な親によって、「できっこない」という否定的な思考パターンが刷り込まれているとしたら、それは、祝福への歩みの、大きな妨げととなってしまうものであるが、モーセの次の言葉は、その強力な刷り込みを打ち破らせる。
『それゆえ、あなたは、きょう、あなたの神、主は焼きつくす火であって、あなたの前に進まれることを知らなければならない。主は彼らを滅ぼし、彼らをあなたの前に屈伏させられるであろう。主があなたに言われたように、彼らを追い払い、すみやかに滅ぼさなければならない。』(申命記9:3)
信仰をもって進む時、戦うのは私達ではなく、主である。
主が焼きつくす火となって先んじて進み、主が戦い、主が勝利して下さるのだ。
だから私達も、いかに親から、不信仰で否定的な言葉の刷り込みがあったとしても、私達自身が主に信頼し、前進するなら、そうした、強烈に植えられたマイナスなものは、あっけない程簡単に打ち破られ、今まで勝てなかった敵に勝利し、今まで入れなかった領域に、入って行けるようになるのである。
そうなるためには、私達自身が実際、信仰によって一歩踏み出す必要がある。
契約の箱をかつぐ祭司が、水いっぱいたたえているヨルダン川へと、一歩足を踏み入れたら、川は堰き止められて行ったように(ヨシュア記3章)、主の御業は、私達の信仰と共に働くものであるからだ。
「アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか」と言った、あの、四十年前の不信仰世代のように、恐れて退くなら、荒野の四十年の放浪が、前途に待ち構えている。
『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』(ヘブル10:38-39)
しかし、私達がもし信じて、主の御心に従って行くなら、主の御業は必ず為され、必ず祝福が待っている。
『あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。』(申命記9:4)
主がイスラエルを勝利させて下さるのは、イスラエルが正しいからではない。
その地の先住民が、邪悪なためだ。
これらの国々は、アブラハムの時代からずっと、何百年も悪を行っており(創世記15:16)、ついには、主の憐れみの期間が尽きてしまったため、主はこれらの国々を、イスラエルを用いて、滅ぼすに任されたからだ。
『あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。』(申命記9:5)
モーセは同じ事を、繰り返して言っている。
あなたがその地を得られるのは、あなたがたが正しいからではなく、心がまっすぐだからでもない、と。
むしろ、彼らがその良き地を得る事が出来る、もう一つの理由は、彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブの、信仰の故である。
親の代が信仰をもって主に仕えるなら、確かに、その人自身も、その子・孫も、祝福される。
ただし、もし子や孫の世代が、主に逆らうのであれば、その世代は、確かに呪われてしまう。
『それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。』(申命記9:6)
モーセは、これで三度、同じ事を繰り返して言った。「あなたが正しいからではない」と。
むしろ、あなた方は強情である、本来なら、こんな良い目を見させられるには値しない者達だ、と。
私達も同じだ。
罪ある人間である私達は、本来、主の愛を受けるに値せず、主の憐れみや恩恵にあずかれるに値しない者である。
それなのに、主は私達を愛し、憐れみ、救って下さった。
それはただ、神は愛であられるからだ。
私達が正しいからでも、他より優れているからでは、決してないのだ。
主は、自分を正しいとするような傲慢な人は、放って置かれる。
むしろ、自分は救いを必要としている罪人だという自覚のある人を、救われる。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12-13)