メッセージ - 執り成しの祈り(申命記9:22-29)
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モーセは、民はホレブばかりでなく、その他の場面においても主に逆らってきた事を、思い起こさせている。
『あなたがたはタベラ、マッサおよびキブロテ・ハッタワにおいてもまた主を怒らせた。』(申命記9:22)
タベラで、民は主の耳につぶやいたために、主の火が燃えあがって宿営の端が焼かれ(民数記11:1)、マサでは、「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試み(出エジプト記17:7)、キブロテ・ハッタワでは、民がエジプトをなつかしんで肉が食べたいと泣き言を言ったために、主は圧倒的な分量のうずらを与えたが、欲望に駆られた者は、激しい疫病に打たれて死に、そこは「欲望の墓(キブロテ・ハタアワ)」と呼ばれるようになった(民数記11章)。
『また主はカデシ・バルネアから、あなたがたをつかわそうとされた時、『上って行って、わたしが与える地を占領せよ』と言われた。ところが、あなたがたはあなたがたの神、主の命令にそむき、彼を信ぜず、また彼の声に聞き従わなかった。わたしがあなたがたを知ったその日からこのかた、あなたがたはいつも主にそむいた。』(申命記9:23-24)
40年前に12人の斥候を遣わした時、民は斥候の報告に恐れをなし、主が「行け」と命じられているのに、逆らって「戻ろう」と言い出した。
自分と相手とを見比べて計算はするけれど、主がおられる事は度外視して、主に期待しない事、それは、主へのそむきである。
それで四十年の荒野の放浪が確定してしまったのだ。
『そしてわたしは、さきにひれ伏したように、四十日四十夜、主の前にひれ伏した。主があなたがたを滅ぼすと言われたからである。』(申命記9:25)
モーセには、こんな民のために、四十日断食する義務も無いだろうに、と思えるのに、それでもなお、彼は執り成した。
霊的な親という立場であるなら、そのような事もある。
いかに、面倒を見ている相手がわがままで、聞かず屋であろうとも、その人の救いのために、あえてその人から、打たれ通し・与え通しとなる事がある。
その時は辛いかもしれないが、主に喜ばれる事である。なぜなら主は、誰一人滅びる事を望んでおられず、その人が立ち直って、救われて欲しいからだ。
そして、その人が立ち直ったのなら、その人からは、それこそ永遠に感謝されるであろう。
以下のモーセの執り成しの祈りは、注目に値する。
もし、皆さんが、誰か執り成し祈りたい人がいるなら、「あなたの民」を、その人の名前に置き換えて祈ってみると良い。
『わたしは主に祈って言った、「主なる神よ、あなたが大いなる力をもってあがない、強い手をもってエジプトから導き出されたあなたの民、あなたの嗣業を滅ぼさないでください。あなたのしもべアブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。この民の強情と悪と罪とに目をとめないでください。
あなたがわれわれを導き出された国の人はおそらく、「主は、約束した地に彼らを導き入れることができず、また彼らを憎んだので、彼らを導き出して荒野で殺したのだ」と言うでしょう。しかし彼らは、あなたの民、あなたの嗣業であって、あなたが大いなる力と伸ばした腕とをもって導き出されたのです。』(申命記9:26-29)
モーセの祈りの中には、イスラエルの民がかわいそう、とか、彼らにはこれこれの良い点があります、など、イスラエルの何かを根拠に、イスラエルを弁護する言葉は、一切、無い。そもそも、人の側には、主に喜ばれるような根拠は、何も無いのだ。
だから彼は、イスラエル人の「何か」を元に執り成す事はせず、「主がどのようなお方であるか」という点を突いて、神にイスラエルを執り成したのである。
実際、この短い祈りの中で「あなた」という言葉が言葉が6回も出て来る。そう、あくまで主語は、主なのだ。
主は真実で、栄光をお受けになるべきお方。
だから、主ご自身が人々から嘲られるような事をするなどとんでもない。
だから、あなたのその真実にかけて、イスラエルを憐れんで下さい、アブラハムに約束されたその真実にかけて、その約束を覚えて下さい、と。
そのように、主の真実を、主の約束された御言葉を盾にして祈る祈りは、有効である。
主の御心は、誰ひとり罪の内に滅びず、救われる事である。(エゼキエル18:23,31-32、ヨハネ3:16)
それで主は、破れ口に立って、執り成して祈ってくれる人を、求めておられる。(エゼキエル22:30)
私達も、使わされた場において、執り成し祈る者として、神と人との間に立ち、日々祈るべきである。