メッセージ - 新約の主の務め(申命記10:1-11)
礼拝説教メッセージ音声:新約の主の務め(申命記10:1-11):右クリックで保存
主は、モーセの執り成しを聞いて下さった。
『その時、主はわたしに言われた、『おまえは、前のような石の板二枚を切って作り、山に登って、わたしのもとにきなさい。また木の箱一つを作りなさい。さきにおまえが砕いた二枚の板に書いてあった言葉を、わたしはその板に書きしるそう。おまえはそれをその箱におさめなければならない』。そこでわたしはアカシヤ材の箱一つを作り、また前のような石の板二枚を切って作り、その二枚の板を手に持って山に登った。』(申命記10:1-3)
最初に主から与えられた石板は、切り出しから彫刻まで、100%、主ご自身の手によるものだったが、民が早くも、契約違反を犯したため、モーセ自身の手によって粉々に砕かれてしまった。
しかし主は、モーセの執り成しの祈りを聞かれ、再び契約の板を与えて下さる約束をして下さった。
この板は、今度は、人の側が用意し、主の御前に持って行かなくてはならない。
そして、それを主の御前に差し出した所、主は、その板に再び御指でもって、主のさとしを刻み付けて下さった。
これらの事は、旧約と新約の有り様を、良くあらわしている。
この世界は100%、主の御手の技によって成り立っており、創世の当初は極めて良い状態だった。
しかし人は、たった一つ与えられていた約束に違反し、主が創造された、この極めて良き世界を台無しに、めちゃくちゃにしてしまった。
主イエスは、そんな罪深い人間のために執り成し、十字架上で受けられた苦しみによって神をなだめて下さった。
人は、このイエス・キリストの執り成しによって義とされた事を、信仰をもって受け入れ、そして、自らの身を主のもとへ持っていくなら、主は、御言葉をその人の心の板に書き記し、もはや、神の言葉と私達とは離れ離れになる事は無くなるのだ。
『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。・・・
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)
『こうしてイスラエルの人々はベエロテ・ベネ・ヤカンを出立してモセラに着いた。アロンはその所で死んでそこに葬られ、その子エレアザルが彼に代って祭司となった。』(申命記10:6)
モーセは、金の子牛の事件の時、大祭司アロンのためにも執り成して祈り、それで、アロンも打たれずに済んだが、結局、人間の祭司は不完全であり、やがては死ぬ運命にある。
だから人には、罪のない、死の無い、まことの大祭司が必要であるが、主イエス様がそのまことの大祭司として立って下さった。
『彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。』(ヘブル7:25-27)
『その時、主はレビの部族を選んで、主の契約の箱をかつぎ、主の前に立って仕え、また主の名をもって祝福することをさせられた。この事は今日に及んでいる。そのためレビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。あなたの神、主が彼に言われたとおり、主みずからが彼の嗣業であった。』(申命記10:8-9)
レビ人も、祭司と同じように、主の名をもって民を祝福するようになった。
レビ人は主の前に立って「仕える人」(英語の聖書ではミニスター)であり、現代において、ミニスターは、牧師や宣教師に限らず、キリスト・イエスにあって、主のために働く人全てが、それである。
レビ人には、土地の分け前は無く、主ご自身が分け前であるが、同じように、キリストにあって主の働き人とされた私達も、世の何物かに報酬を求めるのではなく、主イエス様ご自身を、報酬として求める者達である。
『わたしは前の時のように四十日四十夜、山におったが、主はその時にもわたしの願いを聞かれた。主はあなたを滅ぼすことを望まれなかった。そして主はわたしに『おまえは立ちあがり、民に先立って進み行き、わたしが彼らに与えると、その先祖に誓った地に彼らをはいらせ、それを取らせよ』と言われた。』(申命記10:10-11)
主はモーセに、民に先立って進み、主が約束された地へと導くよう命じられたが、民を約束の地へと導き入れたのは、ヨシュアだった。
ヨシュア、それはヘブライ語でイエシュアであり、イエス・キリストも、イエシュアである。
私達も、先んじて進み行って下さるイエシュア、キリストに導かれて行くなら、主が約束された地、天の王国へ入る事が出来るのである。
キリストにあって王族の祭司とされた私達は、ミニスターとしての自覚を持ち、人々のために執り成し、天の王国のために働く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!