メッセージ - 滅ぼされるべき者であるのに(申命記13:12-18)
礼拝説教メッセージ音声:滅ぼされるべき者であるのに(申命記13:12-18):右クリックで保存
まことの神から離れさせ偶像礼拝へと向わせる動きが、町ぐるみで行われている場合、すぐに滅ぼす、という事はせず、よく調べ、よく問いただしてから、判決を下さなくてはならない。
そして、そのような憎むべき事が行われていた事が明らかとなった場合は、その町の住人ばかりでなく、家畜も、全て剣で滅ぼしつくす事が命じられており、しかも、その町から何のぶんどりもしてはならず、徹底的に破壊し焼き尽くした後は、そこを忌むべき所として、二度とそこを再建してはならない、とまで命じている。(申命記13:12-17)
しかしながら、列王記や歴代誌を見ると、町ぐるみどころか、国ぐるみで、まことの神から離れさせ他の神々へと向わせる動きが幾度もあった。
モーセの命令がそのまま正確に実行されたならば、イスラエルは全て、とうの昔に滅ぼされ、二度と再建されなかったはずである。
それなのに、イスラエルは滅ぼし尽くされず、今も生かされている。
なぜ生かされているのか。
それは、主の憐れみによるものであり、悔い改めて主に立ち返る民を、主が残しておられたからである。
主は憐れみ深い。主は人が悔い改めて立ち返るなら、ひと度発した滅びの宣告を、思い直されるお方である。(ヨナ3章)
主は、人が罪の内に滅んでいく事を、願っておられない。
「人の子よ。イスラエルの家に言え。あなたがたはこう言っている。『私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう。」と。彼らにこう言え。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」』(エゼキエル33:10)
主は、人を好き好んで罰するようなお方ではなく、むしろ、人が悔い改めて悪の道から立ち返り、いのちを得て生きる事を、望んでおられ、悔い改めて主に立ち返る人にはあわれみを施し、豊かに赦して下さる。
『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。』(イザヤ55:6-7)
義人は、いない。一人もいない。
律法を完全に実行できる人も、いない。
人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただ、信仰による。
『人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただ「キリスト・イエスを信じる信仰(ピスティス・イエーソゥ・クリストゥ:イエスキリストの信仰)」によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、「キリストを信じる信仰(ピスティス・クリストゥ:キリストの信仰)」によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
多くの日本語訳では、ここは、キリストイエスを信じる信仰によって義と認められる、と、訳されているが、「その人の(イエスを信じる)信仰」によるのではなく、「キリストの信仰」によって、義と認められるのだ。
事は、人の何かによるのではない。
イエスの信仰、イエスの愛、イエスの憐れみによって、私達人間は、ようやく立っていられるのだ。
私達は、モーセの律法のままに裁かれるとしたら、とうの昔に、罪のゆえに処罰され、滅んでいたはずだった。
しかし私達キリスト者は、今、なんと赦され、生かされている。
それは、キリストが、私達の身代わりとなって処罰され、十字架上で死んで下さった故である。
私達は、真理の上では、既に死んでおり、父なる神の御前には「処罰され済み」とされている。
『わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた「神の御子を信じる信仰(神の御子の信仰)」によって、生きているのである。』(ガラテヤ2:19-20)
ここも正確には、「私達人間が神の御子を信じる信仰によって生きている」のではなく、「神の御子の信仰によって私達は生かされている」のである。
結局、人間が誇れるべきものは、何もない。
「すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。」(ローマ3:27)
私達はただ、イエス様にひれ伏して、この御方にあって生きるのみだ。